嘉祥3年(851)に、 藤原貞敏が唐から持ち帰った琵琶(青山・玄上・獅子丸)3面の内の一つである。この琵琶は謎が多く、他にも現存していると聞いている。宇和島藩伊達家に伝わる「青山の琵琶」は仁和寺の記録にもあり、信憑性は高いと思う。
仁和寺
仁和寺には、「青山」という琵琶の名器にまつわる哀切なエピソードが伝わっている。
この琵琶は平安時代に唐から伝来し、琵琶の名手、平経正(たいらのつねまさ)が愛用したと伝えられる。
『平家物語』巻7によれば、1183年(寿永2)の平家都落ちに際して、平経盛の嫡子の経正は、仁和寺の第6世守覚法親王に謁して、「青山」の琵琶をお返ししたいと言上した。昔、少年の経正が第5世覚性法親王に仕えていたとき、拝領した琵琶である。
その潔さに、法親王をはじめ並みいる面々はみな涙して名残を惜しんだ。なかでもかって経正の師だった行慶法印は、桂川の岸まで見送り、互いに別れの歌を詠みかわした。その翌年の一ノ谷の合戦で、経正は戦死した。
その後、「青山」の琵琶は持ち主を転々として宇和島伊達家に伝えられたという。
公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵「青山の琵琶」の図録解説
縦長100.0×横38.0
本資料箱書(表)には、「胡琴」とある。胡琴(こきん)とは、琵琶の古称(故国から渡来したことに由来する)である。
平家物語の上巻・巻第七・十六「経正の都落のこと」に「青山」にまつわる話が出てくる。物語中、平経正(生年不詳~1184、平経盛の長男、元服まで仁和寺の守覚法親王<しゅかく、1150~1202。後白河院の次男で高倉帝・以仁王の兄にあたる。仁和寺は歴代皇族が貫首を務めた>に仕え、名器の青山琵琶を親王より拝領、琵琶の名手として知られた)が持参した琵琶「青山」は嘉祥3年(850)に藤原貞敏が渡唐したときに入手し、持ち帰って、後代々御所の重宝とされたといわれている。中国から渡来した3面の琵琶のうちの1面とされ、盤面に夏山の緑の峰より有明の月が出る所が描かれているところから、「青山」と名付けられたと伝えられている。
本資料の箱書きによると、陽徳院(1568~1653、政宗の正室、奥州三春城主田村清顕の娘、愛媛)が天正7年(1579)伊達家に輿入れの際に持参し、仙台伊達家に伝わっていたとされる。その後焼失していたものを宇和島藩第5代村候が見つけ出し、入手したと書かれている。また村候直筆の箱書きの終わりには、「笑話」としてしめている。現在は盤面にすれが多く、かすかに木立に山(または夏山の緑の峰か)が描かれているのが窺え、ひとつの景色をなしている。 仁和寺には、「青山」という琵琶の名器にまつわる哀切なエピソードが伝わっている。
この琵琶は平安時代に唐から伝来し、琵琶の名手、平経正(たいらのつねまさ)が愛用したと伝えられる。
『平家物語』巻7によれば、1183年(寿永2)の平家都落ちに際して、平経盛の嫡子の経正は、仁和寺の第6世守覚法親王に謁して、「青山」の琵琶をお返ししたいと言上した。昔、少年の経正が第5世覚性法親王に仕えていたとき、拝領した琵琶である。
その潔さに、法親王をはじめ並みいる面々はみな涙して名残を惜しんだ・なかでもかって経正の師 だった行慶法印は、桂川の岸まで見送り、互いに別れの歌を詠みかわした。その翌年の一ノ谷の合戦で、経正は戦死した。
その後、「青山」の琵琶は持ち主を転々として宇和島伊達家に伝えられたという。
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