今年の大型連休も大勢の皆さんが伊達博物館を訪れていただきました。そのほとんどの方が天赦園や城山にも足を伸ばされます。
「天赦園はどうやっていくの?城山は・・・?」と、当館の受付でお尋ねになる方が多いです。城山については「上り立ち門」を、天赦園については「歩いてすぐの・・」とお教えします。どの方も、伊達博物館、天赦園、宇和島城をセットで考えておられるようです。観光には絶好の季節です。伊達の城下町宇和島を満喫していただきたいものです。
そろそろ天赦園の花菖蒲が見頃になりますが、今日は午前中に天赦園を訪ねました。
国指定 名勝 天赦園 (案内の表示から)
当園は宇和島城の西南部に接する旧浜御殿の敷地の一部である。
第7代宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)(号春山)退隠の居所として文久2年潜淵館を建築し翌年造園の工を起して3年の歳月を経て慶應2年(1866)に築造されたものである。
園名は初代藩主伊達秀宗の父伊達政宗(仙台藩主)の酔余口号と題した漢詩
馬上少年過 (馬上に少年過ぐ)
世平白髪多 (世は平かにして白髪多し)
残躯天所赦 (残躯は天の赦す所)
不楽是如何 (楽しまずして是如何んせん) の一節による。
庭園の地割の主体は広い池で、岬、入江、曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれ池心に一小島を配し池辺の護岸の重厚な石組には多くの和泉砂岩の海石を用い園の周囲は、マツ、クス、カシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し園内には各種の暖温帯性樹木が多数植栽されている。特に家系並びに家紋に因んだフジとタケは種類が多く独特の風致をつくり出している。作庭の年代は比較的新しいが意匠技法に見るべきものがあり、この種回遊式庭園として優秀なものである。
昭和43年5月20日 名勝指定 伊達家
鬼ヶ城山系を借景とする池泉回遊式庭園。面積は11240㎡です。
入ってしばらく行くと石碑(文学碑)が目に入ります。
なかなかにむかしかたらぬ 栗の木の
ふかきこころは 君ぞしるらむ
栗樹記 二荒芳徳
宇和島藩主伊達宗徳(むねえ)の九男に生まれ北白川宮能久親王の五女拡(ひろ)子と結婚し、二荒家を継いで伯爵となった。この石碑には、二荒伯爵の幼い心にとどまる栗の樹が故郷をはなれてもなお母の思い出と共に心の中で育ちつづけたことが切々たる想いをもってここに刻まれています。裕仁皇太子の海外巡遊に随従、イギリスで見た青少年運動に心をひかれボーイスカウトを創設し、発展に尽くした。昭和42年4月没(82歳) 日本ボーイスカウト 日本連盟総コミッショナー
さらに進みます。
数多くのあじさいが植えてあり、表示板に句と説明がありました。
あちさゐの 花のふ可きに寿む月乃
可けも程うき みちか夜の空 秀宗
(あじさいの はなのふかきにすむつきのかけもほどうき みじかよのそら)
この句は、宇和島伊達家初代藩主秀宗がアジサイに実が出来ないことを我が子の短命なことと重ね合わせて詠んだ歌として伝わっています。
小さな滝があります。
養老の滝
春雨亭
愛書家としても有名な春山は、余生を楽しみながらこの書屋で書道を研鑽し、数多くの貴重な書を残しました。ここで穏やかな時を過ごしながら書道を愛し、明治22年、100歳の天寿を全うしました。また、この春雨亭は釘が使用されていない構造の、貴重な建てものだということです。藤と竹
天赦園では伊達家の先祖が藤原鎌足であるというところから藤原氏のゆかりをしのび、藤が多く植えられていますが、それと並んでたくさんの竹もあります。7代春山は、伊達家の家紋「竹ニ雀」にちなみ竹を愛し、園内には19種類の竹や笹が植えられています。金明竹・孟宗竹・黒竹・四方竹・亀甲竹・泰山竹・蓬莱竹・熊笹・オカメ笹等の竹類が園内各所に配され、見るものの目を楽しませてくれます。花菖蒲
天赦園の花菖蒲は、明治30年頃東京、岡山、佐賀、熊本の各旧藩邸より集められた純日本種です。9代藩主宗徳(むねえ)遺愛の花菖蒲で、6月上旬に満開になります。いろとりどりにあやなす風景はひとしおの眺めです。今日は、まだあまり咲いていませんでした。満開になるまでもう少しです。
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