えんま様で有名な西江寺の前を通りました。司馬遼太郎の小説「花神」に出てくる前原巧山の墓があります。
④ 龍華山等覚寺を訪れました。宇和島伊達家初代藩主秀宗が生母を弔うために開山しました。初代秀宗(ひでむね)、2代宗利(むねとし)、3代宗贇(むねよし)、4代村年(むらとし)、6代村壽(むらなが)、8代宗城(むねなり)のお墓があります。
ちょうど翌日がお稲荷さんのお祭りということで、幟旗がたくさん立っていました。
⑤ 木屋旅館を訪ねました。明治44(1911)年、創業。政治家では、後藤新平、犬養毅、作家では司馬遼太郎、吉村昭、五木寛之のほか国語学者金田一春彦らが宿泊しました。最近、期間を限定して営業しているそうです。
ちょうど向かいの宇和島税務署の横に、児島惟謙の生家跡があり、石碑が建っていました。
市指定史跡 児島惟謙の生誕地
児島惟謙は宇和島藩家老宍戸家の家臣金子惟彬の2男として、天保8年(1837)2月1日ここにあった宍戸家の長屋で生まれた。少年時から文武に励み、壮年になっては諸藩の志士と交わり国事に奔走した。維新後は司法省に奉職して明治25年まで長い司法官生活を送った。明治24年(1891)に大津市で巡査津田三蔵が当時来日中のロシア皇太子に傷害を加えたいわゆる大津事件が突発した。その当時惟謙は大審院長としていっさいの俗論を退け、政治的圧力にも屈せず司法権の独立を守り抜いた。このことは我が国の司法史上に不滅の光を放っている。
⑥ その後、丸之内和霊神社(私は「鳩の和霊様」と呼んでいました。)を経て、最後は護国神社の近く(宇和島城の上り立ち門)にある児島惟謙の銅像を訪ねました。
市指定 有形文化財 宇和島城上り立ち門(のぼりたちもん)
昭和38年2月11日 指定 宇和島市教育委員会
※ 薬医門(やくいもん)とは・・・本柱の後方に控柱2本を建てて、切妻屋根をかけた門。
大規模なものは正面を3間(本柱4本)とし、控柱も4本とする。
最後は、ゴール地点である城山公園まで登りました。「愛の葉ガールズ」の皆さんやいろいろな人のパフォーマンスがあり、大勢の参加者も盛り上がっていました。高校時代に、毎週城山往復マラソンをしていました。ここの上り立ち門から頂上の天守まで一気に駆け上がるコース。相当きつかったことを覚えています。おかげで体力がつきました。
閉会後、久しぶりに頂上に登り、天守に入場してみました。「鶴島城」・・・美しい姿にふさわしい名前ですね。とても有意義な一日を過ごせました。次回も必ず参加したいと思います。関係者の皆さん、ありがとうございました。
宇和島城の沿革
戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。
その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり藤堂良勝を城代とした。
慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。天守閣は国の重要文化財に、また城郭は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。
宇和島市教育委員会
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