博物館の庭に出て見ました。いつも思うのですが、担当の方々の心配りでよく手入れが行き届いており、来館される方も季節の移り変わりを楽しんでおられます。先日から、タイサンボクが満開になっていました。先ほど見ると、残り少しになっていましたが、真っ白な大きな花は見応えがあります。 泰山木(タイサンボク・大山木とも書くようです。)について調べてみました。
モクレン科の常緑高木。高さ約10メートル。北アメリカ南東部の原産。暖地で観賞用に栽培。葉は大形、革質で長楕円形、表面には光沢があり、裏面には茶褐色の毛が多い。初夏、白色で芳香のある6~12弁の大輪花を開く。果実は卵形。種子は赤色。漢名、洋玉蘭。(季・夏)
博物館の玄関前に、芝不器男の句碑がありました。芝不器男については、北宇和郡松野町出身の俳人であることは知っていましたが、あまり詳しいことを知らなかったので調べてみました。この俳句は彼の代表作だそうです。
白藤や 揺りやみしかば うすみどり
不器男
(以下、ウイキペデイアより)
芝 不器男 (しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 -1930年(昭和5年)2月24日)は、俳人。本名は太宰不器男(結婚後)。
愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。芝家の四男として父・来三郎、母・キチのあいだに生まれる。不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。
1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。夏期休暇で愛媛に帰省中に関東大震災が起こり、以後、東京へは行かなかった。姉の誘いで長谷川零余子が主宰する「枯野」句会に出席し句作を始める。当初、号を芙樹雄または不狂としていた。1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。兄の勧めで吉岡禅寺洞の主宰する「天の川」に投句。禅寺洞に勧められ、本名の不器男に改号。「天の川」で頭角を現し俳誌の巻頭を占めるようになる。
1926年(大正15年)「ホトトギス」にも投稿を始め、高浜虚子より名鑑賞を受け注目を浴びる。冬季休暇で帰省して以後は仙台に戻らず、1927年(昭和2年)東北帝大より授業料の滞納を理由に除籍処分を受ける。
1928年(昭和3年)伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し太宰家の養嗣子となる。1929年(昭和4年)睾丸炎を発病し福岡市の九州帝国大学附属病院後藤外科に妻を伴い入院。この時に初めて禅寺洞と対面した。12月に退院し福岡市薬院庄に仮寓。俳人でもある主治医・横山白虹の治療を受ける。1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。
1934年(昭和9年)、横山白虹によって限定300部の『不器男句集』が編まれ、175句が収められた。句風は古語を交えて、近代的な抒情味の中に幽艶を感じさせるもの。白虹は「彗星(コメット)の如く俳壇の空を通過した」と評した。
郷里の松野町では毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。1988年(昭和63年)松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。また、2002年(平成14年)生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。
代表句
永き日のにはとり柵を越えにけり
白藤や揺りやみしかばうすみどり
卒業の兄と来てゐる堤かな
一片のパセリ掃かるゝ暖炉かな(絶筆) など。
卒業の兄と来てゐる堤かな
一片のパセリ掃かるゝ暖炉かな(絶筆) など。
作品集
『不器男句集』 横山白虹編、1934年
『定本芝不器男句集』 昭森社、1970年
『麦車-芝不器男句集』 飴山実編、ふらんす堂〈ふらんす堂文庫〉、1992年
参考文献 [編集]『芝不器男』 飴山実編著、蝸牛社〈蝸牛俳句文庫〉、1994年
『芝不器男研究』 岡田日郎編著、梅里書房、1997年
『定本芝不器男句集』 昭森社、1970年
『麦車-芝不器男句集』 飴山実編、ふらんす堂〈ふらんす堂文庫〉、1992年
参考文献 [編集]『芝不器男』 飴山実編著、蝸牛社〈蝸牛俳句文庫〉、1994年
『芝不器男研究』 岡田日郎編著、梅里書房、1997年
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