第3展示室テーマ 「 福寿、宗紀(むねただ) 」
100歳という長寿を全うした宗紀。明治22年、100歳になった宗紀を祝うため百歳祝の宴が開かれました。明治天皇はじめ、親しい大名、親類はもちろんのこと、宇和島市全体を挙げて老若男女に至るまで多くの人が宗紀を祝ったようです。
本展示室では、その祝いの様子や、長寿祝いの品の一端を紹介します。隠居後余生を過ごした天赦園の様子や宗紀自作による作品も併せて公開します。
※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。
伊達宗紀 書 「龍出洞門常作雨 鶴巣松樹不知年」
明治22年、宗紀百歳の書。勢いに満ち溢れる書入れである。宗紀は宇和島邸で鶴の飼育をしていたとされ、また山内(やまのうち)家から番(つがい)の鶴を贈呈されるなど、鶴を愛していた様子が伺われる。
公益財団法人伊達文化保存会蔵
赤楽茶碗(あからくちゃわん) 楽吉左衛門(らくきちざえもん)作
楽焼は千利休が大成した侘び茶好みにかなうよう、天正年間に長次郎が創出したと伝わる。本資料は長次郎を祖とする楽家10代旦入作の赤楽。
公益財団法人伊達文化保存会蔵
「福」の字の中に「寿」(ことぶき)の字が組み込まれたおもしろみのあるデザインが人目を引く。中央の文字を囲むように幸・菱・七宝・青海波などの吉祥文様が染付される。
公益財団法人伊達文化保存会蔵
伊達宗紀 書 「楽春」
「九淵」(きゅうえん)は宗紀の号。本資料には、宗紀の代表的な号「春山」の「春」の一字が含まれる。季節の春そのものを楽しむ心を自身に重ね合わせての書か。
辞世 遺言 「 よきも夢 あしきも夢の世の中を 捨てて今より後は極楽 」 春山
公益財団法人伊達文化保存会蔵
父、村壽(むらなが)について
宗紀の父、村壽は5代藩主村候の四男。在任中は天明の飢饉により藩財政が窮乏し、たびたび倹約令を出す。宗紀の記録に倹約家としての一端が見受けられるのには、こうした父の姿を見ていたことも影響していると考えられる。村壽は家督を宗紀に譲った後「甲長館」を建て、隠居大名として余生を送っている。伊達家の記録や伝来品から、宗紀が村壽を慕っていた様子が想像される。能好きの父村壽とともに能見学をし、あるいは稽古相手をつとめ、また村壽が隠居後慰みとして興じた楽焼の趣味を偲ぶかのように宗紀作の楽焼茶碗も伝来する。
村壽が病に伏せた天保7(1836)年には、幕府へ帰国願いを提出し、父の病気見舞いをしている。幼くして実母を亡くし、複雑な環境を経て藩主として君臨した宗紀であるが、遺された記録類から父に対する敬愛と感謝の心を偲ばれる。
※宗紀の年齢は官年(公式記録)を採用
長寿大名、宗紀に関するエピソード集 ( 「春の山影」より引用、要約)
宗紀の大笑い
~偽物発見を笑い飛ばす~
◆明治10(1877)年 6月17日 88歳
竹場所持の文徴明ノ書ト云フヲ御覧、偽筆トテ大笑遊バサル、ト
竹場(人名)が持っている文徴明の書(有名な書家の、めったにない貴重な書)というのを見せてもらったところ、それが偽物(にせもの)だったので宗紀は大笑いした。
竹場所持の文徴明ノ書ト云フヲ御覧、偽筆トテ大笑遊バサル、ト
竹場(人名)が持っている文徴明の書(有名な書家の、めったにない貴重な書)というのを見せてもらったところ、それが偽物(にせもの)だったので宗紀は大笑いした。
◆明治16(1883)年12月12日 94歳
御書ノ偽筆出ヅ、御覧アリ「實ニヨク似セ候モノ」ト御笑ヒアリ
宗紀の書の偽物が出てきた。それを見て「実によく似ているなぁ!」と笑った。
~性質は不器用だった!~
若い頃から日本や中国の名筆古法帖などで練習したが(自分の)性質が不器用で簡単には上達しなかった。ふと、唐伯虎の軸物を手に入れ、これを壁にかけて朝夕習字をしていると、偶然揮毫の秘訣(ひけつ)を悟(さと)り、それから少しずつ書道が上達していった。
書は単に字形を習うだけでは上達せず、昔の人の手跡(しゅせき)にはそれぞれ習うべき秘訣がある。これを心がけて工夫を積むことが大事だ。
(揮毫=きごう、筆で書を書くこと。)
(唐伯虎=とうはくこ、唐寅<とういん>。明代四大画家の一人で、詩の名人。)
~99歳「回生(かいせい)翁(おきな)」~
~明治20年の罹病~
初めは軽い風邪、それから発熱、胸部の痛み、腹部の痙攣(けいれん)、吐気・水瀉((すいしゃ)(下痢)・頭痛。8月には少し軽くなり、9月に入ると、顔部の腫物(はれもの)・上顎のただれ・口内水疱疹・顔面水泡ロースなどがつぎつぎに見られたが、10月末から11月にかけて回復に向かい11月下旬近くに全快し床上げ祝宴。
長病からの平癒を喜び、年末に作る来年用の印は、「九十有九叟」と共に「回生翁」(回復した男の老人)を命じる。
長病からの平癒を喜び、年末に作る来年用の印は、「九十有九叟」と共に「回生翁」(回復した男の老人)を命じる。
~「通れーッ」~天赦園の拝観~
宗紀の存命中、毎年4~5月は天赦園を一般市民へも開放していた。宗紀はこれを一つの慰みともしていたようで、時には縁側へ出て見ていたこともあったという。ある老人の話によると、そうとも知らず入園した市民がご隠居様の急な登場に恐れ入り、まごまごしていると、宗紀は大きな声で「通れーッ」と言ったという。
~健脚(けんきゃく) 階段を手放しで昇降~
90歳の頃までは、2階への階段を手放しで自在に昇降していた。この階段はとても勾配が急で、手すりの側に頼り縄を附けており壮者(そうしゃ)(働き盛りの人)でさえ手放しでは困難なのを、少しも危なげなく上下していたという。
※ 今回の展示に合わせて、第3展示室では修復作業を終えた「東海道五十三次蒔絵組杯・黒塗牡丹蒔絵杯箱」を展示しています。現在の修復技術の粋がうかがえます。ぜひご覧ください。
東海道五十三次蒔絵組盃・黒塗牡丹蒔絵盃箱
(とうかいどうごじゅうさんつぎまきえくみさかずき・くろぬりぼたんまきえさかずきばこ)
盃は朱塗りに金・銀を使って東海道にあった53の宿場が描かれる。盃を収納する箱は、蝶をかたどった蝶番で連結され、黒塗りに牡丹が蒔絵される。
公益財団法人伊達文化保存会蔵
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(部分を拡大したもの)
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