2014年8月6日水曜日

天赦公園発掘調査現地説明会に参加しました。

7月20日(日)午前9時から、宇和島市教育委員会文化課による「天赦公園発掘調査現地説明会」が行われました。真夏の太陽がじりじりと照りつけるなか、大勢の市民の皆さんが参加していました。いまさらながら、ふるさと宇和島の歴史について、興味を持っている人が多いことを感じました。当日の配付資料をもとに、説明会の内容についてご報告します。
 
◆調査の概要
宇和島市天赦公園の配水管敷設工事に先立つ発掘調査において、宇和島藩主の御殿「御浜御殿」に関わる建物跡(土塀)を確認しました。今年1月の馬屋跡の調査に続いて、藩主御殿内の施設が発掘調査によって明らかとなりました。
 
調査地:宇和島市天赦公園  土地面積:1790平方メートル 調査面積:約60平方メートル
 
◆調査の経緯
平成25年度   国道拡幅工事に伴う市排水管移設工事について協議。県教委への届出を行い、発掘調査の勧告を受ける。
 
平成26年2・3月  国道拡幅工事分について県教委が試掘調査を実施。発掘調査の勧告を受ける。
      4・5月  愛媛県埋蔵文化センターによる発掘調査。土塀跡を確認。
 
        7月  宇和島市教育委員会による発掘調査。県埋蔵文化センターの調査で確認した              土地の延長を確認。
 

 
 
◆御浜御殿について
今回の調査地は御浜御殿のほぼ中央に位置しています。御殿内の区画は宇和島城側に政庁である御殿建物があり、西側及び南側は庭園及び隠居用の屋敷などの藩主のプライベート空間となっていました。今回の土塀は政庁部分と庭園部分を区画するものと考えられます。
 


 
◆御浜御殿の土地利用の変遷
御浜御殿は、明治維新以降7代藩主宗紀公の隠居所であった天赦園等の一部の施設を除いて、藩主の居館としての性格を失いました。御殿の中央には東西に走る道路ができ、特に庭園部分は水田となっていました。大正9年には豊後橋の南にあった宇和島中学が庭園部分北半部に移転し、昭和37年以降の国道56号線の整備、昭和42年の公園整備を経て現在の形となったようです。水田だった頃の当時の古写真によると、水田と道路の間に三角形の区画が確認できます。土塀礎石はあぜ道のような状況だったと考えられます。



 
◆調査によって確認された遺構
土塀跡  検出長:約50m  幅:約1m 最大高:約50cm
基礎は砂岩・礫岩の割石と自然石が混じり、1~2段積まれていました。矢穴(石を割るときのくさびの跡)の大きさは幅5cm程度であるため、江戸後期のものと推定できます。
 
側溝石列  検出長:40m  幅:20cm弱  最大高:約40cm
土塀基礎に比べて小型の砂岩石割が並んでいます。石の辺ではなく角を下にした積み方は明治以降のものと推定できます。
 
その他  土塀礎石を被覆する土はガラス片等を含み、出土した陶磁器も近現代のものがほとんどであったことから、グランド整備時の造成土と考えられます。
 



 
 
◆出土遺物
瓦、陶磁器等コンテナ1箱相当。
出土遺物のほとんどは近代以降の陶磁器でした。なかには伊達家の家紋である九曜紋の軒丸瓦、高級品である江戸期の色絵皿等も出土しました。また、近代資料のなかにも伊達家の家紋である「竹に雀」紋の小杯があり、注目される資料です。
 

 

 
◆今回の調査成果について
御浜御殿の姿がわかるものは、国指定名勝天赦園と伊達博物館の庭にある偕楽園以外には残っていません。そのため、御殿内部の遺構の位置などを推測することは資料が少なく困難でした。今回の調査で絵図と照合できる遺構が発見できたことは非常に大きな成果です。残念ながら今回発見した土塀の基礎は工事によりなくなってしまいますが、成果については天赦公園内に看板を立てて市民の皆様へお伝えする予定です。
 

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