大森監督にお聞きしました。伊達図書館(私立)の初代館長さんが、兵頭賢一先生、先生に敬意を表して兵頭館長の名前にしたとのこと。相当に伊達家について勉強されています。
兵頭賢一先生生誕100年を迎えて
津島町生まれの偉大な教育家郷土史家としてあまりにも有名な兵頭賢一先生が本年2月9日をもって生誕百年を迎え、町を挙げて顕彰の問題がとり上げられ、記念碑を建立することになりました。
先生は津島町、当時の岩松村・芳原村両村の庄官兵頭通衛の長男として出生。愛媛県尋常師範学校を卒凛して教育界に入り25才の若さで津島高等小学校の校長となられ、当時は今の津島町となっている旧6ヵ村の組合立でありました。教育生活10ヵ年の問に大きな功績を残されました。後、宇和島に迎えられ、女子小学校(後の第二小学校)畏とならわ人徳豊かなひげの校長先生として17年6ヵ月、名門校としての輝かしい歴史を打ち立てられました。大正12年3月、退職後は伊達図書館主事館長として謹厳な中にやさしいまなぎしのお顔で23年4カ月にわたって勤められ、生涯のほとんどを宇和島市で過こづれ、その功績は教育上では学校教育、社会教育の両面で偉大な功績を残されましたが、さ
らに光を放っておりますのは先人未踏の細土史上の新しい開拓です。その業蹟は先生以前に先生なく、先生以後に先生なく、まさに後世に語りつぐべき学徳兼ね備えた偉大なお方とつくづく思うのであります。今先生の略歴を編集いたしまして功成り名遂げられたと思われる生涯ながら、私の感想はただ「お気の毒である」の一語に尽きるのであります。先生最大の目標の一端が北宇和郡誌(宇和島、吉田両藩誌ともいう)に示されているのでありますが、さらに学校退、伊達家史編纂(-さん)の大業を生涯の光栄と心をこめ文字通り心血をそそいで完成を急がれつつありましたのにこれを完成することなく他界されましたことで、これは先生にとっても伊達家にとっても我々南予人にとってもまことに悲しむべきことてありせす。さちに伊運家の維新時の功績を考えいたしますと、全国的にもまこ
とに遺憾なことでありでした。
第2小学校時代。県下で初めて奏任官待遇を受かられたとき先生は大正12生5月4日に、退聴後はじめて伊達豪家史編纂の起稿を合ぜられせした。伊達家では北宇和郡誌やその他の著書や論文で、すでに兵頭先生の人格と学者としての実力を十分認識されていたので、自宅勤務で差し支えなしとのありがたいお言葉でしたがそんなもったいないことほ出来ぬと毎日出勤されました。はじめは南予文化協会創立にニ荒伯を助けて図書館勤務とかけ持ちで忙しい毎日でしたが、やがて図書館主事として館長として、図書館経営に力を尽くしながら家史編纂に没頭されました。そして皇室との関係の深い伊達家の家史を書くことを無上の光栄と恐惶(-く)謹厳と、自宅においてすら羽織、袴(はかま)で書かれています。そしてこの研究の基礎は大正4年ころから着実に進められていたのでした。まず最初正確な伊達家の系譜系図を作ることに努力され、その完成後最初に維新の大功廣のあった宗城公伝から書きはじめられたのでした。この宗城公伝記の中心となった参考書は大正4年から昭和8年まで実に18カ年ににわけて東京の日本史籍協会発行の日本史籍叢書全187冊の大著述でした。その中で一番大切な本は伊遷宗城在京日記という700余頁ぐらいの一冊ですが、これは予約出版で一冊売りはいたしません。前金で700円を払われましたが、今のお金にしたら実に大金です。全部で187冊という大部数ですが、しかもその一冊一冊が皆大切な資料です。宗城公の履歴を語れば維新史全体を語らねばならぬほどの大功績のあったお方ですから、どれも尊い大切な資料で(津島町長室に保管されでいる。現127冊在庫60冊欠)全部次次と購入され丹念(たんー)に読まれ大切なところを書き抜き、書き込みや切り抜きを貼(は)り付けたりして伝記資料を作られました。
また、この読書の外に重要な資料となったのは穂積家から提供されたと思われる渋沢栄一の名著徳川慶喜公伝全8巻。これは堂々4000頁に及ぶ大著です。渋沢栄一はもともと徳川の家臣で一橋家に仕え、後、明治初年、大実業家として500の銀行会社の創立や重役に関係した人物だけにあらゆる古文書や写真を入れた豪華版で、極めて重要な資料です。渋沢栄一の娘が陳重博士の夫人であるから穂積家に贈られたものを、先生に提供されたと思われる貴重な文献であります。その上に重要な資料となったのは、昭和12年1月に東京帝国大学編纂所から出版された維新史料綱要全10巻です。6、500頁の大著で、これも全部読破して重要個所を書き抜き、多くの資料を作られせした。このほかあらゆる維新資料の本を購入されるために、学校時代の俸給から退職金や月々伊達家からの手当、恩給などあらゆる収入のうち生活費を極度に切りつめて購入費にあてられました。そのため先生は生涯宇和島で家を買うことが出来ず、借家住まいで家を転々と変わられました。あえて買おうとされず学者としての良心に生きられたのです。
この文献資料の上に、伊達家に伝わる宗城公関係の文書や藩日記書翰(-かん)類に至るまで詳細調査されての著述ですから、文字通りの心血を注いでの大事業です。このことに着目したのが県の教育会で、昭和5、6年ころから先哲偉人叢書を次々と刊行を計画して、愛媛の偉人の伝記を出版しておりました際でしたから、ての宗城公伝を兵頭先生に依嘱し200頁ぐらいにまとめてほしいと申し込んで原稿用紙を送っで来ました。これは一行34字詰めで14行の大型ですから、一枚が約旧菊版(A5版)の1頁に当たる。従っでページ数の算定に便利であるから、以後先生はこの原稿用紙を用いられるようになりました。さて先生は昭和9年ころすでにこの原稿用紙に2,000枚の原稿を完成させておられました。県の教育会はこれを200枚200頁に縮小せよと申し込んで来ました。2000頁を200頁というのですから、丸で無茶です。兵頭先生はせめて400頁はないと書けぬと再三断わられ、やっと317頁の本として出版されました。伊達家家史としての原稿の活字本となったのはこれだけで、原稿の7分の1ぐらいに縮約されるのに苦心されました。さてこの2,000頁の原稿はさらに慎重に検討され、書き足りぬところもあり、加除されたりしてやはり2,000頁ほどの原稿にまとめられ、東京芝白金三光町にありました伊達家家史編纂所に送られ、ここで高瀬代次郎氏を主任とする家史編纂会で検討され、出版の運びとなっていたのでしたが、出版寸前に大東亜戦争の戦禍による大空襲で烏有(うゆう)に帰したと伝えられ、疎開前に東京便りとして宇和島の兵頭先生に伝えられると、悲嘆のあまり頭も上がらず、気も狂わんばかりであったということです。しかもこの渋沢栄一著の徳川慶喜公伝全8巻も帝国大学出版の維新史料綱要全10巻も全部そのまま岩松へ寄贈されております。
こかより先、この宗城公伝記が完成した後、すなわち昭和17年のはじめ、伊達家から引き続いて宗紀公、村寿公伝記の記稿を命ぜられました。宗城公の場合と同様先生は非常な感激をもってお受けになり、自分の生あるうちにこの二公の伝記のみならず全部を完成させるべく、身を清めてこのお仕事に熟中されせLた。ページ数は両公とも3,400首との要望でありました。これからは時代が古く遡ることになるので、前述の維新資料の上に南郷(春山公)重要庫内の旧薄日記をあさって両公の伝記資料をもとめる外、東京邸にある資料を借り入れたり、天敵園の御庫内の春山公伝記資料を克明に調査して原稿資料を作成、いよいよ出版出来る原稿として浄書されることになったのが昭和18年の始めころで、完成したのが19年の終わりころです。そのころには本文と付録と合計500声の原稿となり、東京編纂所に送ったとあります。(付録 宗紀公御年表144枚)
さて、この稿がまだ完成せぬ昭和18年9月ごろから村寿公の伝記に着手されたのでしたが、19年1月から病気にかかられた。これはあまり精魂を尽くしての執筆で、夜半に及び、寒気がこたえての病気でしたが、それでも構わず床中で浄書Lたりして稿を急がれこれは400頁位で完成し、19年のおわりごろになると春山公伝とともに東京に送られたと思います。(付録 村寿公御年表127枚)このころ戦争はますますはげしくなり、これほ大変、この勢いで早く宗利、宗贇、村年、村候公伝を書き上げたいと、四公の伝記
資料の収集に熱中、暗い灯火管制のもとで整理をつづけ、いよいよ全部の伝記資料が整理され執筆の段階となり、宗利公第一原稿(269頁)を書かれた時、7月13日、第1回宇和島空襲のため図書館が直撃弾で焼失、やがて疎開となって中絶のやむなきに至っている。なお秀宗公伝は未完成ながら遺稿として残っている。まことに今一歩というところで遂に悲願は達せられず、戦争は先生の生涯にとって最大の痛恨時でありました。
先生の略歴編纂にあたり、家史編纂の進行状態が不明確であるのは、先生が毎日入念に書き続けられた編纂の日記が、宇和島第一回の空襲で完全に消失してしまったためです。毎これは大正12年以来疎開までの貴重な記録的日記で、極めで謹厳なお方でしたので、細心の注意が払われ、万一東京の原稿が焼失するという事故にあっても、この日記と同じところに保管されでいる原稿となった伝記資料を照合すればすぐ復稿出来る万全の措置がとれる、いやしくも皇室と関係の深い伊達家の重要な記藤として永久に保存さるべきものとの確信のもと編纂の順に生月日を一日もらさずかカタカナで長期にわたり書き継がれており、金庫に納められでおりました。しかし不幸にも第一回空襲の焼夷(い)弾の猛火は、金庫内のこの日記さえほとんと全部焼失し、わずかに春山公小伝とわずかばかりの編纂日記と伝記資料が焼け残ったに過ぎせせんでした。
出目に疎開されたのは20年7月16日で、これは西部軍監司令部の強制疎開命令によるものでした。先生は空襲がはげしくなっても、図書館長としての責任上疎開は出来ないと思われ、とどまっておられたが、図書館が焼失したのを期に退職願いを出された。伊達家は家史編纂の仕事は終了間近でもあるし、先生を深く信頼されていたので、疎開してもよいそのままそのまま名をとどめよとのことであったが、「それでは疎開はできせせん。軍司令部から老人、子供、妊婦は対空防火の妨げになると強制疎開を命ぜられております。また私は病気で職責が果たせ卓せん」と退職願いを出してその内諾を得て疎開されました。まことに責任感の強い謹厳な性格がうかがわれます。
出目へ疎開されでからの先生はまことにお気の毒であった。戦後の困難な国内情勢のきびしさに国を憂い陛下の身の上を案ぜられ、心血を注いだぼう大な原稿の焼失-老衰に加うるに精神的な大きな打撃は、先生の健康を著しく害し、たしかに数年の寿命を縮めたと思う。それでも焼け残った春山公小伝の改稿をして私費出版をされようとしたり、郷土史関係の随筆を書きつづけられ、これは漫談だと言っておられるが、多年郷土史の著述や論文にとりくんで来られた方の体験は実に尊い著述であったと思われます。それは200数
十頁が書き終わり、さらに2冊を追加、現に書きつづけていると書いてあるので、500頁近いものとなったと思われます。これらの遺稿も今はまったく行方がわかりません。まことに惜しいことです。 先生は貴重な原稿でも本でも、何でも惜しげもなく人に与えられた。これは若くして津島高等小学校長時代、北灘慈済寺におられた足山道源師について深く仏教の研究をされ、仏陀(だ)に帰依されついに晩年は八幡浜大法寺の禾山和尚を信仰され、死する時、身に一物も持たず身につけずの大聖の数えを身をもって示さかたことの現われと思われます。自分の生涯の感想を書いた10数冊の回顧録も自ら焼き捨てられ残されておりません。四40力年にわたって全財産を投じて買い集められた千数百冊
の本も、自分の真価を知って信頼してくださった伊達家のために、また白分を暖めはぐくんでくださった宇和島の人なのために、伊達図書館に全部を寄贈すると心に定めておられましたが、戦争によってその悲願が達せられなくなると、思うはなつかしい故郷津島のこと。ただ自分は一塊の土になりたいと、津島の教え子の乞(こ)うままに全部、故郷岩松へ寄贈されました。まことに仏心に徹したお方でございました。思えば先生の生涯の悲願、それは北宇和郡誌に続いてさらに維新後期も含めた伊達秀宗公以来宗城公に至るまでの大南予史の完成であった。それは伊達藩政史を通して、我々の先祖が歩みつづけた血のにじむ生活史を含めた政治、経済、教育、風俗などあらゆる文化の歴史を掬(く)みとることの出来るほう大な郷土史の完成であったと思われます。それが完成寸前にして戦禍によって無惨に断たれたことを悲しく思うのであります。
この悲しい思い出の中に迎えた生誕100年に、一つの喜ぶべき事実を知り、この喜びをかみしめております。
それは、この心血を注がれた最後の原稿春山公伝、村寿公伝の奇跡の生還である。昭和25年死去される前、戦禍で焼野が原と化した東京の貨物専用駅汐留駅の焼け残った倉庫の片隅にただ1個、宇和島伊達家行きの荷物が転がっていた。早速宇和島に送り返され開いて見ると、これが何と兵頭賢一先生最後の原稿春山公伝、村寿公伝であろうとは。まさに、奇跡というよりは、神霊仏陀の加護によるとしか思えません。伊達家の使者がこれを宇和島笹町で静養中のお宅に持参しますと、病床にあって立つことはできませんでしたが、うれしさのあまりただ言葉なく涙がとどまらなかったとのことです。これは現宇和島伊達出張所長宮本正男氏のお話で、その遺稿を目のあたり拝観させてもらいましたときの感激は、いつまでも忘れることはできません。これは将来、何らかの形で先生の記念図書として出版される日を期待してやみません。先生の生誕100年を迎えて、この遺稿が永遠の名著として出版される日の早からんことを祈ってこの稿を終わります。
この文章は、昭和48生2月13日、14日の両日、郷土の新聞「新愛媛」に連載されたものの再録である。 津島町 (曽根和男記)
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