Who is he ?
そうです
児島惟謙です。
今回は、
何をした人?
どんな人?
?????
私でも、知っているのに、みなさんご存知ですよね。私が、中学生の時教わったのは、
大津事件のこと
護法の神様であること
そして、その時の社会科の先生のお家に
惟謙のお母さんのお墓があること
社会科の先生=三間町正法寺の住職
(余談でが、教科書に載っていた太閤画像が宇和島伊達家のものであることも
残念ながら覚えていたのはこの二つだけでしたが)
でも、児島惟謙という方は、ほかにどんなことをしたのだろうかと
ずっと思っていました。
城山上り立ち門横には立派な銅像があるのに!?
こんな本を見つけました
昭和55年5月15日発行
著者 青野 暉
発行者 児島惟謙先生銅像建立委員会
銅像を建てるときに書かれたもので、
著書の青野暉氏は宇和島出身の映画監督です。
50ページ程度でとても分かりやすくて、児島惟謙の偉大さがわかるものでした。
簡単にまとめてみると
① 1837年宇和島市堀端に生まれる。
② 武士の子でありながらすぐに里子に出される。
③ 少年時代の多くを町人の家で過ごす。苦労したが、これが物事を考えるうえで大きなプラスに。
④ 19歳ごろ働きながら文武の修行を。剣道に秀でる。
⑤ 維新の運動に目覚めていく。高知などに遊学する。
⑥ 29歳長崎で坂本龍馬、五代友厚と出合う。
⑦ 藩の許可を得て京都・大阪に行くも日数超過のため謹慎、翌年脱藩する。
⑧ 勤王倒幕の運動に身を投じ、佐賀藩出身の北海道総督参謀の楠田英世の部下になる。
⑨ 楠田英世のもと新潟開港に尽力、品川県権少参事に。
⑩ 楠田英世が司法省の明法権頭に、惟謙も司法行政官へ。
⑪ 廃藩置県の折に籍を宇和島に、士族でありながら平民として届ける。
⑫ 佐賀藩出身の司法卿江藤新平にも出会い影響を受けるる
⑬ 38歳世続重子と結婚、権中判事になり、裁判官としての一歩を踏み出す。
⑭ 鶴ヶ岡事件解決、一躍、裁判官児島惟謙の名を高める。
⑮ 「家庭規言」なるものを子孫に残す。41歳のとき、自身の歴史を振り返った人生訓。
⑰ 50歳大阪控訴院長に教育事業にも携わる。
⑱ 新島襄の人間尊重・自由主義的良心至上主義に深く共鳴し同志社大学設立に援助、甥と息子を同志社へ託す。
⑲ 関西大学の前身関西法律学校の設立に深く参画する。当時大阪の実業家であった土居通夫にも援助を仰ぐ。
⑳ 明治22年憲法発布、立憲君主制の国家として出発、24年に大審院長に任命される。
㉑ その5日後に大津事件が発生する。
〇 大津事件とは
来日中のロシア皇太子ニコライが琵琶湖観光を終え、大津にさしかかった時に突如、警備をしていた巡査津田三蔵が切りつけた事件。皇太子は頭部を負傷しただけで、難を逃れる。
日本は、大騒ぎになる。帝国ロシアが攻めてくる。即刻死刑にすべきであると。
惟謙は文明国で起きた事件であるならば、その国の法律に照らして処分すればそれで済むこと。何ら大騒ぎすることはない。しかし、時の内務大臣西郷従道(西郷隆盛の弟、隆盛の肖像画を作成する際に参考にした人物)からは恫喝されるなど、政府から強い圧力をかけられる。
しかし、政府の干渉をはねのけ、大審院は、「無期徒刑に処する」と判決を下す。惟謙は、勝利し、司法権独立の基礎を築くことに成功したのです。彼は、相談し応援してくれていた穂積陳重博士に「カチヲセイスルニイタレリ、アンシンアレ」と電報を打っています。我が国の法曹界の識者は、この判決にもろ手を挙げて賛意を表しているのですが、批判もあります。三審制を放棄したことや担当裁判官に対して説得を試みたことなどです。司法権の独立が確立されていない時で、大局的な見地からまずは、司法権の独立を確立することが最重要なことと判断したのでしょう。かくして「護法の神」と言われるようになったのです。
㉒ 大津事件後、花札とばくをしたということで、ぬれ衣を着せられるが無実とわかる。裁判にかけられたと責任を感じ大審院の職を辞す。あらゆる人から惜しまれる。
㉓ 宗城公からも、「宇和島藩から惟謙のような人が出たことは名誉なことと」手紙を書いている。
㉔ 宗城が、侯爵に叙せられるときには、かげながら運動をしている。
現在展示物の中に
宗城から惟謙へのお礼の書簡が
また、惟謙直筆の手紙も
㉕ 58歳で貴族院議員に
㉖ 62歳で衆議院議員にその後第二十銀行の頭取になり金融界でも活躍する。
㉗ 72歳で逝去。
0 件のコメント:
コメントを投稿