「三百諸侯中屈指の良主」について一言申し上げますこの用語は大正6(1917)年発行の兵頭賢一著「北宇和郡誌」に書かれたのが最初であり、「甲子夜話」の中にこの記述はありません。もちろん、5代藩主村候が宇和島伊達家の家格を上げたりして、歴代藩主中、中興の藩主とするのに違和感はありません。 しかし、この用語の出所は確認しておく必要があるでしょう。歴史研究の用語には歴史的名辞と歴史学的名辞の二つがあり、これを混用すべきではないと思います。歴史学的名辞とは、歴史研究の必要性から後代につけられた名辞であり、次元が違いますが、一般的にはその代表として、日本史上「大和政権」や「鎌倉幕府」「幕藩体制」などの名辞があげられるでありましょう。 さりとて、すでに国史大辞典(吉川弘文館、昭和63年発行)の伊達村候の項目(雄執筆田中雄)中に、この用語が使用されていることなどから、無下にこの用語使用を否定するものではないことを明言いたします。 かつて宇和島伊達家史料を調査した、ある歴史学者は、村候在世中、米沢藩主上杉鷹山より伊達村候の方が知名度があったと、戦前の南予時事新聞の記事に書かれてありました。その生存中ユニークな殿様として、これからもっと宣伝していく必要があると思います。このことは拙著「宇和島健歩・燼余」に書いたつもりであります。 宇和島藩も村候以降、英名の藩主が輩出し、仙台藩祖伊達政宗の遺伝子は、かえって宇和島藩に受けつがれたのであります。仙台伊達家は江戸中期以降、総本家の血筋は薄れて幼沖の藩主が継続したため、幕末のあのような混乱を招いたのであります。無用一件、あしからず御了承ねがいます。
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「三百諸侯中屈指の良主」について一言申し上げます
この用語は大正6(1917)年発行の兵頭賢一著「北宇和郡誌」に
書かれたのが最初であり、「甲子夜話」の中にこの記述はありま
せん。もちろん、5代藩主村候が宇和島伊達家の家格を上げたり
して、歴代藩主中、中興の藩主とするのに違和感はありません。
しかし、この用語の出所は確認しておく必要があるでしょう。
歴史研究の用語には歴史的名辞と歴史学的名辞の二つがあり、こ
れを混用すべきではないと思います。歴史学的名辞とは、歴史研
究の必要性から後代につけられた名辞であり、次元が違いますが、
一般的にはその代表として、日本史上「大和政権」や「鎌倉幕府」
「幕藩体制」などの名辞があげられるでありましょう。
さりとて、すでに国史大辞典(吉川弘文館、昭和63年発行)の
伊達村候の項目(雄執筆田中雄)中に、この用語が使用されてい
ることなどから、無下にこの用語使用を否定するものではないこ
とを明言いたします。
かつて宇和島伊達家史料を調査した、ある歴史学者は、村候在
世中、米沢藩主上杉鷹山より伊達村候の方が知名度があったと、
戦前の南予時事新聞の記事に書かれてありました。その生存中ユ
ニークな殿様として、これからもっと宣伝していく必要があると
思います。このことは拙著「宇和島健歩・燼余」に書いたつもり
であります。
宇和島藩も村候以降、英名の藩主が輩出し、仙台藩祖伊達政宗
の遺伝子は、かえって宇和島藩に受けつがれたのであります。仙
台伊達家は江戸中期以降、総本家の血筋は薄れて幼沖の藩主が継
続したため、幕末のあのような混乱を招いたのであります。無用
一件、あしからず御了承ねがいます。
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