現在、伊達博物館では 『長寿、宗紀-長寿大名100年を謳歌-』 と題して、平成25年度後期展を開催しています。
長寿大名として知られる宇和島伊達家7代藩主宗紀(むねただ)侯に関する貴重な品々を展示します。特に伊達家に伝来する宗紀所用の品や、その人柄が偲ばれる品、また正室観姫(みよひめ)の実家である佐賀鍋島家にちなむ華やかな品など、1世紀を生き抜いた長寿大名ゆかりの品を一挙に公開しています。展示されている貴重な品々の中からその一部をご紹介していきたいと思います。今回は第1展示室です。
第1展示室テーマ 「宗紀(むねただ)と筆(ふで)」
能筆家として知られる宗紀。存命中から揮毫(きごう=毛筆で言葉や文字を書くこと。毫(ふで)を揮(ふる)う。)を求める声も多く、宗紀書と伝わる作品が現在まで数多く遺されています。また江戸時代は多くの大名が筆をたしなむことに加え、その道具収集にも余念がありませんでした。本展示室では、伊達家に伝わる文房具類を中心に、宗紀愛用の品とその精神世界を彷彿とさせる品を公開します。
※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。
蘭亭硯(らんていすずり)
公益財団法人伊達文化保存会蔵
硯石の中で最もよい石とされる端渓硯(たんけいけん)使用の硯石。各面には中国晋代(永和9(353)年3月3日)蘭亭で王羲之ら文雅の友が集い、禊ぎごとをなし、曲水に盃を流しつつ詩を詠んだという故事が描かれる。
堆黒菊文硯箱堆黒菊文硯箱(ついこくきくもんすずりばこ)
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
総体を大輪の菊花が大胆に咲き誇る。堆黒は木胎に黒漆(くろうるし)と朱漆(しゅうるし)の層を
何層にも塗り重ね表面を黒漆塗りし、文様を彫刻する。中国では剔犀(てきさい)と呼ばれる。
獏筆架(ばくふでかけ)
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
銅製龍文筆洗(どうせいりゅうもんひっせん)
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
扁額 宗紀書『五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)』
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
大正6年に穂積陳重(ほづみのぶしげ)(日本初の法学博士の一人。宇和島藩士で国学者・穂積重樹の次男。)が記した裏面の貼紙によれば、大澤正道が所蔵していた宗紀の親筆を「一個人の私愛すべきものにあらず」とし、宇和島に寄附された経緯が記される。
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
慶応3(1867)年3月、宗紀78歳の書。宗紀の隠居所・濱御殿(はまごてん)に造園された天赦園(てんしゃえん)(現在は国名勝)は、この書が書かれる前年に完成している。
花鳥図 呂紀(りょき)筆 「白鷺」 (花鳥図の一部です。)
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
白鷺(しらさぎ)・・・美しい白い羽や優雅な姿が好まれ、蓮(はす)と同じように泥中でも泥に染まらない高潔な人格の喩えとして多用された。蓮池に鷺の図は、立身出世の例えとされるようになった。
※ 「一(いち)路(ろ)連(れん)科(か)」(蓮=連、鷺=路と発音が通じる ことから続けて科挙<試験>に合格すること。)
花鳥図 呂紀(りょき)筆 「海棠」 (花鳥図の一部です。)
右幅は牡丹・海棠(かいどう)・金鶏・小鳥で春、左幅は蓮(はす)・百合・白鷺(しらさぎ)・小鳥で夏が描写される。
筆者の呂紀は、中国・明の宮廷画院画家。鮮麗な彩色と細緻な描写を特色とする装飾的花鳥画を得意とした。
海棠(かいどう)・・・中国原産の落葉樹。江戸時代初期頃に日本に渡来。イヨシノが咲き終わる頃、紅色の可憐な花を枝いっぱいに咲かせる。中国では古く牡丹と並び称されて人気の高い華で美人を表す言葉でもあった。
染付磁器 朱肉池(4組) (そめつけじき しゅにくち)
貼紙より春夏秋冬を表しているとされ、4合で1具として納められる。
花文花瓶(はなもんかびん)
公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵
ターコイズ地の胴は波に蓮(はす)と赤魚が描かれ、東洋オリエントの雰囲気をもつ。首部は唐草花文が配され、地色は金地の線を境に上から青、赤、黒で構成される。
伊達宗紀(だて・むねただ)について (1792~1889)
宇和島藩7代藩主。正室は佐賀鍋島家8代藩主治茂(はるしげ)の娘観(みよ)。弘化元年(1844)に隠居、春山(しゅんざん)と号す。百歳の天寿を全うした長寿大名としても知られる。
寛政4(1792)年6代藩主村壽(むらなが)の長男として宇和島で生まれる。文政7(1824)年、家督を継ぎ藩主となる。藩主在任中よりその才覚を発揮し、天明の飢饉(ききん)以来の藩財政の回復と蓄積をはかる。質素倹約を推奨し、またハゼ蝋(ろう)の専売、塩やスルメなど特産品の保護、農業の技術改良に藩士を取り組ませるなど領内の検地や殖産事業の拡張等の藩政改革に努めた。
その才能は政治的分野に限らず、歴代藩主の中でも能書家として知られ、領内の寺社等にも書が多く伝来し、百歳祝賀の際には多くの著名人からその書が所望された。明治22年11月死去。
※年齢は官年(公式記録)を採用
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