特別展「結の華 -佐賀鍋島家と宇和島伊達家の幕末・明治- 」 (その1)
今回から主な展示内容をご紹介します。ぜひこの機会に、伊達博物館を訪れていただき、本物をご覧ください。
※ 写真の著作権は公益財団法人鍋島報效会・公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。
【第1展示室から】 「大名華族」
仮装舞踏服姿の鍋島直大・胤子夫妻像(写真)
(かそううぶとうふくすがたのなべしまなおひろ・たねこふさいぞう)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
11代鍋島直大(なおひろ)・栄子(ながこ)夫妻の仮装舞踏服姿の写真油絵。裏書に「伊藤侯爵家にて 舞踏フワンシーボールの時 沸國ノ昔の人の姿」との墨書があり、これにより明治20年4月20日に催された伊藤博文首相官邸での大仮装舞踏会(fancy ball)で着用された衣裳であることがわかる。夫妻共に実際の衣裳が現存する点でも大変貴重である。
永田町鍋島邸西洋館(写真) (ながたちょうなべしまていせいようかん)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
西洋館は11代鍋島直大が明治15年(1882)に特命全権公使の職務を終えイタリアより帰国した後、約8年の歳月をかけて落成した三階建ての建物で、大サロンや舞踏場、大小の応接室などを兼ね備えたものであったが、大正12年(1923)の関東大震災で崩落した。
鍋島直大御一家(写真) (なべしまなおひろごいっか)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
鍋島家に残る古写真は圧倒的に丸木利陽の撮影になるもので,膨大な数に上る。おそらく明治20年前後からのお抱えか。写真の技術が確かで仕上げが綺麗、状態も非常に良い。本資料も丸木利陽の台紙に貼られ、侯爵鍋島家の家族の肖像である。直大・栄子夫妻に長男直映(明治24年3月1日英国留学の途に)、直大生母瀧村(明治25年3月9日没)、伊都子・茂子・信子・貞次郎・孝三郎、栄子に抱かれた直縄(明治22年5月6日生)たち子女が写る。明治23年頃の撮影か。
洋装の鍋島栄子像(写真) (ようそうのなべしまながこぞう)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
ローマでの鍋島直大像 (ローマでのなべしまなおひろぞう)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治11年(1878)洋行から帰国した11代鍋島直大は、翌年ドイツ・イタリア皇族や前アメリカ大統領の接伴掛を命じられ,8月には外務省御用掛となる。そして、13年3月8日特命全権公使・駐伊在勤の辞令を受ける。7月9日、外務書記官の百武兼行らを伴い横浜を出港した。公使時代のローマで撮影した大礼服姿の直大。裏面には「My best compliments to Prince Jionii Gasuno/27th Jun 2541 of year / From Jansarnmi Nawohiro Nabeshima」「鍋島直大」の署名がある。2541年(西暦1881)6月27日は明治14年に当たる。百武兼行が精魂込めた油彩の鍋島直大像もこの大礼服姿である。服装一式も今に残る。
仮装舞踏服(ファンシーボール) (かそうぶとうふく)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
11代鍋島直大着用の仮装舞踏服。フランス国王ルイ15世の末期からルイ16世の初期の頃(18世紀後半)の宮廷衣裳アビの形式で、緑色サテン地の上衣とキュロット、白サテン地のベストの他、鬘と三角帽からなる。上衣とベストは金モールとシークインの刺繍飾り付き。幸いなことに、直大夫妻が本品を着用時の写真に彩色を施した「写真油絵」が遺存し、裏書に「伊藤侯爵家にて 舞踏フワンシーボールの時 佛國ノ昔の人の姿」とある。これにより、明治20年(1887)4月20日に伊藤博文首相官邸で催された大仮装舞踏会(fancy ball)で着用されたことが分かる。 海外生活で貴族の嗜みを身に付けた直大は鹿鳴館開設当初より中心的な人物で、外国人教師を招いて洋式舞踏の練習会を開催し西洋風社交界の速成に務めた。
菊御紋鳳凰付御盃・玻璃コップ・銀盃
(きくごもんほうおうつきおさかづき・はりコップ・ぎんぱい)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治25年(1892)7月9・10日、永田町鍋島邸(現在の首相官邸一帯)新築落成祝いのための明治天皇、皇后の行幸啓の際に下賜された品。盃は薄手の白磁に金彩で菊御紋、鳳凰をあらわす。玻璃コップはカット技法で切子の面をつくり、胴部中央に菊御紋をクラヴィール技法であらわす。三枚一組の銀製盃は見込みに毛彫で唐草文様をめぐらし、三方に菊御紋を配す。この日鍋島家では新築の西洋館・日本館において御能、相撲、柔、剣術、琴演奏、手品等の余興を披露している。
授爵書附 (じゅしゃくかきつけ)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、明治新政府は公卿・諸侯(大名)の称を廃して華族とし、士族の上位に置いた。明治17年に至り華族令を制定し、華族を公・侯・伯・子・男の五等爵に区分し家格・勲功によって授爵し、国家に勲功ある政治家や軍人らも華族に列した。同年7月7日、36万石の旧佐賀藩主である鍋島家には、11代直大に侯爵が授けられた(侯爵24家のひとつ)。侯爵鍋島家はその後、12代直映、13代直泰と続き、昭和22年の日本国憲法施行により廃止された。
簪類 (かんざしるい)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
これらの簪は11代鍋島直大夫人栄子所用のもの。いずれも非常に細く、繊細な模様がほどこされる。葡萄付きの鉄製簪は、房を非常に小さな真珠であらわす。また、竹楓蒔絵の簪には米があしらわれているが、一粒の米に「いろは」四七文字が書き込まれている。さらに、金属製の台以外に鼈甲製の台もあり、珊瑚や瑪瑙の飾り玉をつけた玉簪のほか、筍と蕨を添えたものがある。いずれも一つ一つ意匠が墨書された和紙にくるまれ保管されている。写真は左より金台茶杓形茶筅付簪、竹ニ楓蒔絵お米付簪、銀台水ニ鮎簪、銀台蔦模様簪、鉄台金葡萄付簪、銀台水仙模様簪、銀台松葉ニ梅花付簪、鼈甲台蕨金筍付小簪、鼈甲台銀菊之花簪、鼈甲台瑪瑙玉簪、鼈甲台珊瑚玉簪。
松林図刺繍扁額 (しょうりんずししゅうへんがく)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治25年(1892)に落成した永田町鍋島邸の西洋館に、関東大震災(大正12年)後は松濤邸に飾られていた刺繍の扁額。前方に大きく松林を配し、その間に楓樹をあらわす。松林の奥には水辺の景と遠山、一軒の家屋をあらわす。向かって右下には橋をわたし、その奥では二人の人物が漁(ヵ)をしている。左手前の楓樹には鳥が九羽とまり、遠方に雁の群をあらわす。綴織や刺繍・友禅染などの染織技法によって絵画的な画題を表現した作品は、明治から大正時代にかけて多く製作され、海外の万国博覧会や国内の勧業博覧会などに出品するため、あるいは洋風建築などを実際に装飾するために制作された。
杏葉紋透し花瓶(含珠焼)
(ぎょうようもんすかしかびん)(がんじゅやき)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
長寿のシンボルである鶴と亀を陰陽であらわしており、鶴の両翼と亀の甲羅には、鍋島家の家紋である杏葉紋が巧みに図案化され、組み込まれている。染付の亀とは対照的に、羽を広げた鶴と口縁部の瓔珞模様は、光を通すと美しい輝きを放つ。これは素地を透彫にした後、その部分に透明の釉を充填して焼成する「蛍手」と呼ばれる技法である。底部には「棣華堂/伍平製」との染付銘がある。棣華堂とは、武雄市西川登町小田志の樋口治実のこと。樋口は明治20年(1887)に含珠焼の専売特許を得ており、作品は「明の蛍手よりも精巧なり」と称されたという(「肥前陶磁史考」)。伝来の作品は少ない。
ボンボニエール各種 (ぼんぼにえーるかくしゅ)
【公益財団法人鍋島報效会・公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵】
ボンボニエール(bonbonniere)はフランス語で砂糖菓子(ボンボン)を入れる小箱のこと。日本でも近代以降に金平糖などを入れ、慶事の際の宴席出席者各人に引き出物として添えられた。有職や吉祥に因む文様や形を取り入れたものが中心で、宮中の伝統に関するものや戦時中の時勢を反映したものなど、その意匠は多岐にわたる。
菊御紋付化粧道具 (きくごもんつきけしょうどうぐ)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治天皇の御遺物として大正元年(1912)12月、侯爵鍋島家に下賜された化粧道具。ビロード貼の箱の蓋中央に鼈甲製の菊御紋を配し、内部には鼈甲をふんだんに用いた櫛やブラシ、鏡、爪磨きなどを収める。佐賀藩最後の藩主となった11代鍋島直大は英国留学を経たのち駐伊特命全権公使、元老院議官兼式部頭、貴族院議員、宮内省式部長官、宮中顧問官等の要職を歴任し、天皇の信頼も厚かったという。
牙彫鹿の背に仙翁置物 (げぼりしかのせにせんおうおきもの)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治天皇の「御残品」として、大正2年(1913)9月17日に11代鍋島直大夫人の栄子が拝領した置物。巻子と団扇を手にした寿老人が牡鹿にまたがるさまを表す。寿老人は道教を起源とする延命長寿の神で、同じく長寿のシンボルである鹿を伴う。鹿と翁は象牙製、衣服と土坡は紫檀製である。鹿の角や鼻先の質感、髭をたくわえた寿老人の柔和な表情などを、牙彫細工で巧みに表現している。
牙彫猿の桶作り置物 (げぼりさるのおけづくりおきもの)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
大正2年(1913)12月2日に鍋島家11代・侯爵鍋島直大夫人栄子が昭憲皇太后より拝領した牙彫置物。擬人化された猿が身の丈よりも大きな桶作りに精を出すさまをあらわしている。桶の側面に底板をはめるための溝を削る親猿と、その傍らで鉋屑で遊ぶ子猿、桶の周囲には道具箱や槌を散らしている。
菊御紋付牡丹孔雀象嵌銀製花瓶
(きくごもんつきぼたんくじゃくぞうがんぎんせいかびん)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
永田町鍋島邸が落成した明治25年(1892)、明治天皇の行幸が行われた際に11代鍋島直大へ下賜された品。帝室の王権的イメージの象徴的形態とされる、いわゆる「宮内省型」の銀製花瓶で、頚の前後中央に菊御紋を表し、金・銀・銅などによる象嵌の技法で向かい合う雌雄の孔雀や松樹、牡丹をあらわす。金沢銅器会社は明治10年(1877)2月に長谷川準也(1841〜1907)らによって設立された「銅器会社」が同15年6月に改称したもの。
明治天皇行幸図 (めいじてんのうぎょうこうず)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
明治24年(1891)に永田町鍋島邸の日本館が、同25年には西洋館が落成した。本図は、同年7月9日に落成を記念して行われた明治天皇の鍋島邸行幸の様子を描いている。玄関先には直大・栄子夫妻はじめ、伊達宗城・徳川家達・細川護久・前田利嗣らの親戚、また家職らが迎え出ている。右上方の色紙形には、この日天皇が西洋館三階から東京湾を眺望して詠まれた御製和歌を栄子が書している(皇后は翌10日に行啓)。本図は11代鍋島直大夫人栄子刀自80才を祝し、旧藩関係の団体が相謀り、秀島英麿に嘱して謹写、昭和10年12月22日に奉呈したもの。
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