【第3展示室】 「幕末の華」
特別展の紹介シリーズ最終回です。前回に引き続いて主な展示内容をご紹介します。ぜひこの機会に、伊達博物館を訪れていただき、本物をご覧ください。
※ 写真の著作権は公益財団法人鍋島報效会・佐賀県立博物館・佐賀県立美術館・佐賀県立佐賀城本丸歴史館・佐賀県立図書館・武雄市・公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。
※ 鍋島報效会所蔵品については、徴古館HPより転載
※ 伊達文化保存会所蔵品については、『宇和島伊達家伝来品図録』より転載
佐賀では藩御用の鍋島藩窯(はんよう)・鍋島更紗(さらさ)・鍋島緞通(だんつう)などの優れた工芸品を産出し鍋島ブランドを確立し今に伝えている。慶応3(1867)年に行われたパリ万国博覧会では、佐賀・薩摩両藩が中心となり日本を代表して参加した。その折に出品されたのが、鍋島藩御用の鍋島藩窯、鍋島更紗、鍋島段通などの優れた工芸品である。
特色ある文化が華ひらいた一方、幕末期の日本は欧州列強が押し寄せる国際情勢の不安定な時期でもあった。長崎警備を担っていた佐賀藩は、諸藩に比べ外国文化に触れる機会に多かったことから積極的に西洋文化を取り入れ、武器の購入や大砲鋳造、蒸気船の建造など開明的な政策により軍備を強化していった。
モルチール砲(臼砲)(もるちーるほう)(きゅうほう)
【武雄市重要文化財・武雄市蔵】
(文化遺産オンラインHPより)
武雄における大砲の歴史は、天保3年(1832)武雄領主鍋島茂義が家臣平山醇左衛門を長崎の西洋砲術家高島秋帆に入門させたことに始まる。2年後には茂義自身も入門し、武雄領では全国に先駆けて大砲製造に努力し、試射を行った。この成果は、茂義の実弟で佐賀藩士坂部三十郎によって佐賀本藩に伝えられ、天保11年(1840)に神埼の岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られるようになった。このモルチール砲は、通称20ドイムモルチールと呼ばれるもので、把っ手のある上面には銀製の武雄鍋島家の家紋がはめ込まれ、蘭文の銘がある。下面には漢文の銘があり、高島秋帆が天保6年(1835)に日本で最初に製造した洋式大砲であることがわかる。この砲が武雄にあることの意義は大変大きく、当時の人々の近代科学への進取の姿勢が読み取れる。
上面の銘:IN HET JAAR 1835 / (HOLLANDSCH) / EERST GEGOTEN TE JAPAN」
下面の銘:「皇国莫兒氏兒開基 / 高島四郎兵衛源茂紀 / 高島四郎太夫源茂敦 / 日本砲術家従来未知放之 / 造之 天保六年乙未 / 七月令鋳法門人嶋安宗八 / 鋳之」
(図録『「大鑑・巨砲ヲ造ル」江戸時代の科学技術』より)
高島秋帆がつくった日本初の様式砲。モルチール砲(臼砲)は、砲身が短く少量の火薬で発射できるのが特徴で、弾道は大きな放物線を描くため城壁内の目標物を攻撃するのに向く。砲身の下部に高島茂紀・高島茂敦(秋帆)父子が門人嶋安宗八に鋳造させたと記す刻銘がある。昭和11年武雄鍋島邸の庭から発見された。
ボンベン野戦砲(施条カノン砲)
(ぼんべんやせんほう)(しじょうかのんほう)
【武雄市重要文化財・武雄市蔵】
(文化遺産オンラインHPより)
この砲は、腔線5条、火口に「三番」の刻銘がある。滑空砲から施条砲に変わる過渡期のものとみられている。
染付藩窯絵図大皿(そめつけなべしまはんようえずおおさら)
【佐賀県重要文化財 佐賀県立博物館・美術館蔵】
(図録『佐賀鍋島藩の美術』より)
大川内山(伊万里市)の藩窯の景観で、青螺山のふもとの工房や関所などが配されている。山や家屋の描法からは、10代藩主直正の近習で書画を得意とした古川松根(1813~71)の特徴が観察される。松根は藩窯の図案も手がけたとされ、藩の管理下で運営された藩窯の景観を描くことができた人物として、ふさわしい。家屋にみられる形式化した描写から、松根の図案をもとに絵付けされたものとみるべきかもしれない。
鍋島更紗 見本帖 (なべしまさらさみほんちょう)
(図録『佐賀鍋島藩の美術』より)
32種類の模様の更紗が貼り合わせられ、それぞれの境界をつなぐ色紙に「壱番」から「三拾弐番」までの番号が墨書されている(改装時に17番下に別文様が発見され、全33種となる)。見返しの左端下の「さらさ屋/兵右衛門」とは鍋島更紗を製作した江頭兵右衛門のことで、天保10年(1839)2月11日起筆の「更紗日記」に名前が記されている。また同日記の弘化4年(1847)1月26日に「御用ニ付手本持参罷出侯処第三拾番御用ニ而」とあり、藩の御用は、番号の付された「手本」を持参して製作の指示を受けていたことが知られる。したがってこの見本帖は、江頭家で藩からの御用をつとめるため使用された「手本」そのものであった可能性が指摘できる。
鍋島直正像(なべしまなおまさぞう)【公益財団法人鍋島報效会蔵】
百武兼行が描いたと思われる10代鍋島直正の肖像画。正装した衣冠束帯の表現が平板なことなどから、実写ではなく写真をもとにして描いたものと考えられる。百武は9歳の時、のちに11代藩主となる直大のお相手役に選ばれ、直大の父・直正の側近だった古川松根(1813~72)に師事して和漢の学と書画を学んでおり、百武は本品のほかに古川松根像も残している。ただ百武が洋画家としての実力を本格的に身に付け始めるのは明治7年(1874)に再渡欧した際、直大夫人・胤子のお相手としてロンドンでリチャードソンに師事してからであり、その後のパリ修行を経てローマ滞在中の明治14年に描いた鍋島直大像は彼の肖像画の到達点を示している。
鍋島直正和蘭船乗込図(なべしまなおまさおらんだせんのりこみず)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
天保15(1844)年7月2日、オランダ国王の開国勧告を携えた使節船パレンバン号(軍艦)が長崎に入港した。長崎警備の重要性を認識していた10代鍋島直正は「後のため、かの船中を委(くは)しく見置給ん」と長崎奉行に掛け合い、9月19日にパレンバン号に乗込み視察を行った。その様子を直正の側近であり視察の御供をした古川松根が18図に亘って記録した絵巻物。本図は二段目にある将官の座敷に入り、将官コープスとカピタンからテーブル一杯に銘酒や菓子等の饗応を受けている様子を描いており、中央の赤い袴の人物が鍋島直正である。直正一行は船内各所を見学の後、石火矢(大砲)の操作を見学し、砲術について種々質問を行い、満足のいく視察であったという。この視察が、直正による国防のための海軍創設の端緒となった。
鍋島直茂像(なべしまなおしげぞう)【公益財団法人鍋島報效会蔵】
佐賀藩祖鍋島直茂(1538~1618)は鍋島清房の次男として天文7年(1538)本庄館に生まれる。母は龍造寺家純の女。龍造寺隆信の下で戦功をあげ、今山の合戦で大友氏を打ち破り、重臣の地位を固める。隆信の敗死以後、龍造寺一門や豊臣秀吉の信頼を受ける。龍造寺政家から高房へと移り、慶長12年(1607)両氏の死によって、名実共に鍋島佐賀藩が誕生する。直茂は隆信とは元々従兄弟であり、父清房へ隆信の母慶誾尼が再嫁したことにより、義兄弟でもあった。肖像画は菩提寺に甲冑姿があり、当会には束帯姿:横向き2点と正面向き1点があり、いずれも藩の御用絵師三浦子璨筆。右下に方印「三浦賢純/五州孫子/璨平淵印」あり。
葉隠(はがくれ) 【公益財団法人鍋島報效会蔵】
(佐賀県立図書館寄託)
江戸時代を代表する武士道論。佐賀藩士・山本常朝(1659~1719)の談話を、田代陣基(1678~1748)が聞き書きして編集し全11巻として享保元年(1716)に完成した。内容は、教訓(1・2巻)、藩祖直茂・初代勝茂・2代光茂・3代綱茂などの言行(3~5巻)、佐賀藩士の言行(6~9巻)、他藩士の言行(10巻)、補遺(11巻)の各巻で構成されている。葉隠の原本は知られておらず多数の写本があるが、写真は山本本と呼ばれる写本で、佐賀藩「御什物方」印が押されている。
青漆塗萌黄威二枚胴具足(せいしつぬりもえぎおどしにまいどうぐそく)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
佐賀藩歴代藩主所用の具足で現存する唯一のもの。胴裏面に金泥で記された「鎧記」から、初代鍋島勝茂が寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱で着用したもので、寛永19年(1642)に勝茂末男の直長に与えられた「武運之瑞器」であることが分かる。以後、直長の子の茂真に始まる鍋島内記家(親類)に伝来。
具足に付属する鍋島内記家6代茂生の書付(江戸時代後期)によると、当時から「堅牢にして軽便、質朴にして花色無」い具足、との評がなされ、天保14年(1843)にこの具足を見た10代鍋島直正は「わが家が所蔵する具足と匹敵する名器だ」と述べている。奇抜さはないが、萌黄色の威糸と青漆の色が調和し、機能を最優先したと思われるいかにも実戦的な甲冑である。簡素でありながらも藩主着用にふさわしい風格がある。
蒸気車雛形(じょうきしゃひながた)【公益財団法人鍋島報效会蔵】
佐賀藩精煉方が蒸気機関研究のため、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形。2気筒の蒸気シリンダーを有するが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うため、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと思われる。
蒸気船雛形(外輪船)(じょうきせんひながた)(がいりんせん)
【公益財団法人鍋島報效会蔵】
嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府は西洋軍事技術の導入を阻止する従来の政策を改め、洋式軍艦の建造を大名に勧めた。これは佐賀藩精煉方が蒸気機関研究のために製造したとされる蒸気船(外輪船)の雛形。ボイラーが単管式である蒸気車雛形よりも進化した多管式となっており、蒸気の発生効率が向上している。慶応元年(1865)に三重津で完成した木製外輪蒸気船「凌風丸」の原型といわれる。
大砲鋳造絵巻(たいほうちゅうぞうえまき)【佐賀県立佐賀城本丸歴史館】
幕末、小田原における大砲鋳造の様子を描いた絵巻。青銅製の西洋式カノン砲と和式砲の製造について、材料の運び込みから鋳型の製作・据付け、こしき炉の組立て、砲身の鋳込みからし上げ加工まで、行程の各段階を説明付きで詳細に描写している。
佐賀焼三つ組盃・盃台(さがやきみつぐみさかずき・さかずきだい )
【公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵】
ここで「佐賀焼」と称されているものは、伊万里・有田焼をさすものと考えられる。江戸時代には伊万里の柿右衛門・今右衛門の色絵盃などの良品が作られている。宇和島藩の第5代村候・7代宗紀・8代宗城の夫人は佐賀藩鍋島家から輿入れされている。それに伴い、佐賀からの焼き物が多く使用されていたと考えられる。
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