2013年12月20日金曜日

宇和島歴史文化研究会公開講座が開催されました。

12月8日(日)正午より、宇和島市生涯学習センター大ホールで、宇和島歴史文化研究会講座が開催されました。当日は会場に入りきれないほどの聴講者の皆さんが訪れていただきました。初めて一般公開される150年前の史料の公開や、幕末期研究の第1人者である近藤俊文氏の講演に熱心に耳を傾けていました。その様子をお知らせします。
 
 
 
会場である生涯学習センター3階の大ホールには、
数多くの貴重な資料が展示されました。
 
 
                              熱心に史料を閲覧する皆さん。                    
 
伊達宗城に宛てた都築莊藏の手紙(復命書)
 
  
 水野事務局長の開会宣言で講座がスタート。
 
 
 
宇和島歴史文化研究会赤松副会長のあいさつです。








 
 
              公益財団法人宇和島伊達文化保存会理事長
              伊達宗信様から祝辞をいただきました。

  
                    今回は「公開講座」ということで一般の聴講者も多く、
                    会場は熱気にあふれていました。

 
 
近藤俊文氏の講演 
演題「慶応三年伊達家文書からみた四侯会議・大政奉還・王政復古」

 
 
      2時間を超える講演もあっという間に終わってしまい、聴講された皆さん、
      もっと聞きたいという顔をされていました。
 
 
講座に参加して、多くのことを学びました。特に、幕末の動乱期において宇和島伊達家8代藩主伊達宗城公の果たした役割が実に大きかったことを改めて感じました。また都築莊藏、上甲貞一ら有能な家臣に恵まれていたことも知りました。都築莊藏については、明治時代に新聞記者、政治小説家として活躍した末広鉄腸の兄であることは知っていましたが、二条城での大政奉還賛成演説の様子を報告した全長10メートルもの史料を目にして、その迫力に驚きました。
 
 

(参考:当日配布された「展示史料解説」から)

「五月二十三日宗城公参内於公卿之間寄合 ”公の奮闘空し”」
 
摂政、議奏、武家伝奏衆、それに将軍慶喜、慶永、板倉らが居ならぶ公卿之間で、摂政九条斉敬の指名を受けて宗城公は発言、冒頭から慶喜と激突。宗城公は長州の寛大処分を先にして兵庫開港は後に回すべきと主張。慶喜は諸外国との約束期限があるので、開港と長州処分を同時に行いたいと主張。兵庫開港は諸公家の意見を聴いた後だと摂政が掣肘したので、慶喜と板倉が反発したが結論が出ない。慶喜は、政権を委任されている以上決定権は我にあり、我が決定に不満を抱くことは不道理だと主張。なんと摂政がそれに同意。宗城公反論。理屈としてはそうだが、不条理な決定をすれば天下一同が服従しないだろう、と脅かす。慶喜強弁、朝議として決定したのであるから、これは変更できない。宗城公反論、「不諫ノ天子ナシ」と言うではないか。正論は吐くべしと。追記には、政権委任である上は、兵庫開港を認めなければ、幕府は手を引くと恫喝した慶喜に、尹宮、鷹司父子が呼応して退場してしまった。そこで摂政はじめ大泣きに泣いた、とあるのだが、朝議は慶喜論に決定した。
 
 
「六(七?)月上甲貞一象次郎御政体変革之所見大意書取 ”象次郎の奉還論と西郷論” 」
 
大政奉還論を宗城公が上甲貞一にまとめさせたもの。幕府と薩越土豫が対立抗争して衰弱する日本を外国は窺っている。この国を救うには、幕府が関東の一大諸侯として天下の権を朝廷に返し、「王政復古」を実現するべきだ。具体論としては、天子が「政事堂」を開いて「天下の英才を選挙」して大政を委任する。いわゆる藩を基盤とする公議政体論であるが、その他には大学校と海軍場を設けるくらいで、具体性に欠け最初期の奉還論である。史料の最後の方が失われているので全貌は不明である。面白いのは象次郎の西郷論で、「兎角覇気を帯候議論に而動モスレハ兵力を仮(ママ)リ事ヲ成シ候」ような傾向があるが、西郷は奉還論に同意していて「必千戈を用ひ候料簡ハ聊かも無之候」とわざわざ注釈している。
 
 
「十月二十四日都築莊藏土藩建言並幕府形勢十月十五日迠次第書 ”都築莊藏の活躍”」
 
全長十メートルの京状報告書。後藤象二郎、西郷吉之助会見記も見所だが、十月十三日二条城での莊藏の大政奉還賛成演説が本命。無理矢理登城させられた莊藏は宗城公の指示ではなく、自発的意思で発言したことが判る。宗城公はこれを多として賞状を発している(本会場に展示)。
象次郎は、六月十七日の宗城公謁見で積極的支持が得られなかったこと、重役なども真剣に検討しなかったことから、宇藩に対する不満を募らせていた。十月六日の莊藏の象次郎との会見に同席して毛利恭助は、建白が容れられなければ「御兵力厭倒之志ヒ相見候」様子だった。象次郎自身も十月五日に、「寺村左膳帰藩同人帰着之上は御人数登京仕候」と発言していた。用兵建白は容堂が厳しく禁止したところだから、これらの発言の正確な意味は不明であるが、乾(板垣)退助が薩藩と武力倒幕を密約しているこの時、色々武力闘争の動きがあったのであろう。報告書の附録には、諸藩の戦備態勢が報告されている。建白が容れられそうにないので「十二而は坂本良馬も崎陽より上京、模様次第崎陽滞留兵隊(海援隊)召登候筈」、「浪華迠藝州強壮之兵二百計到着」とあり、長州兵も近日蒸気船で上阪。片や幕府は、十月十三日までに、加賀兵を大阪城警備に呼び寄せ、小浜藩その他の藩兵も動員していると報告している。西郷はじめ多くの者が、建白の採用はないと考えていたが、会津藩が方向転回して、政治改革路線に立ったので、象次郎建白を妨害しないであろうとの観測もあり、慶喜が建白を採用する可能性は高まっていたことが判る。

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