現地説明会について
とき:平成26年1月25日(土)10時から ところ:伊達博物館駐車場に集合◎調査の概要
宇和島市御殿町の個人住宅建設に先立つ発掘調査において、宇和島藩主の御殿「御浜御殿」に係わる建物跡(馬屋)を確認しました。藩主御殿内の施設が発掘調査によって明らかとなったのは初めての事例になります。また、この馬屋は従来の資料では確認されていない建物です。
調査地:宇和島市御殿町701番地 土地面積:138.44㎡ 調査面積:約90㎡
朝早くから、大勢の参加者がありました。
宇和島城の御殿は三之丸御殿と御浜御殿の2カ所が存在しており、それぞれに隣接して馬屋が作られていたことが分かっています。承応3(1654)年絵図では御浜御殿の南側、現在の佐伯町に馬屋が位置していました。この馬屋は延宝2(1674)年に火事で焼失し、.屏風絵図や元禄16(1701)年絵図では佐伯町に馬屋は確認できません。
三之丸御殿に隣接する総郭の御馬屋は、長さ90間の馬屋と土塁に囲まれた馬場からなる長大なものでした。屏風絵図ほか、各年代の絵図に「馬屋」もしくは「馬場」と記されています。承応絵図には見られないことから、佐伯町の馬屋が焼失した後、作られたものと考えられます。今回確認した馬屋はこれら2カ所の馬屋以外に初めて確認されたものであり、御殿の区画内に作られた唯一の馬屋と言えそうです。馬屋の表面が御殿の正門に向いていることから、御殿の来客用などの用途が考えられます。
学芸員による現地での発掘調査概要の説明
馬屋の遺構 柱の跡が見えます。
御浜御殿(おはまごてん)について
『鶴鳴與韻』によると、神田川の元の流れは「勧進橋の手辺より北へ向かって流れ」とあり、御浜御殿周辺で海に流れ込んでいたものと考えられます。現在の流れは戸田勝隆の頃(1587~94年)に付け替えられ、その河口部分の埋め立て地は藤堂高虎の治世には侍屋敷となっていました。愛媛県歴史文化博物館の井上淳学芸員の研究では、寛永4(1627)年作成の公儀隠密見取図にある「侍屋敷」、承応3(1654)年頃作成の宇和島城下絵図にみられる長方形の「御屋敷」は、藤堂高虎の家臣で宇和島城代であった佐伯惟定(権之助/豊後)の屋敷であり、伊達家入部の後、寛文10(1670)年~延宝5(1677)年までの拡張工事により、凸字型の御殿となったことが明らかとなりました(井上2010)。
2代藩主宗利による御殿造営ののちは藩主居館として使用され、文政8(1825)年には7代宗紀の隠居所が造営されました(天赦園)。
今回の調査地は御浜御殿の東端のほぼ中央部に位置しています。御殿東側は北側の豊後橋・搦手門・上り立ち門を通って城内に向かう御殿の正面に相当します。建物配置は東北角に長屋、北寄りに御門(正門)、南寄りに御庭御門、南東角に千鳥門が作られていました。
出土遺物
瓦、土器、陶磁器等コンテナ7箱相当が出土しました。瓦では、伊達家の家紋が入った九曜文軒丸瓦や宇和島城内での主要な瓦当文様である三葉文軒平瓦が確認されました。陶磁器では、「藩」「御」の文字が入った幕末期の椀が出土しました。藩の施設を示す文字と思われ、特注品と考えられます。また墨で「権」の文字が書かれた陶器の椀等も出土しています。
学芸員の説明に熱心に耳を傾ける参加者の皆さん。
出土した椀のかけら。文字が読みとれます。
調査によって確認された遺構
馬屋跡 礎石14基を確認。柱の礎石配置は東西3間以上(6m以上)、南北2間半(5m)。宇和島城保存整備検討委員会委員 三浦正幸教授の評価
(広島大学大学院文学研究科教授・工学博士)
○江戸時代のものとしては、非常に丁寧な礎石の据え付け。馬屋は高級建築のため礎石が丁寧な造りでも不自然ではない。
○側柱筋(がわばしら)に2間分の柱間があるので、18世紀半ば以降のもの。
○西側の1間の狭い幅の部屋は馬小屋。
○東の6畳間+4畳間は、馬の番人の部屋ではないか。
○6畳間の北側中央に柱がないことから、縁側になる可能性があり、北側が表と推定できる。
土塀跡 南北方向に延び、幅約60cm(2尺)、長さ4mを確認しました。南側は抜き取られており、不明ですが、北側は調査区外に延びているものと思われます。なお、聞き取りによると、50年ほど前まで道を挟んだ南側に土塀が残っていたそうです。
絵図・文献との対応
現在御殿の建物配置が分かる絵図は、元禄期(17世紀末)の城下絵図屏風、延享4(1747)年浜之御屋敷御着城絵図、文政8(1825)年隠居所新築図があります。当該地付近は、屏風絵図では蔵、延享絵図では蔵と腰掛がみられ、18世紀中頃までは蔵があったことが分かりました。文政絵図では何らかの施設を示す表現は確認できますが詳細は分かりませんでした。その他の文献資料に御浜御殿の馬屋についての記録は現在のところ発見できていません。土塀については各時代の絵図に表現されており、おおむね絵図通りに出土しました。
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