2014年9月12日金曜日

特別展イベント情報 「ワークショップ ~メイキャップモード」開催

9月7日(日)15時から、天赦園において、特別展「天下の伊達 -武将のモードと文化ー」に関するイベント「ワークショップ ~メイキャップモード」が開催されました。

これは、今回の特別展テーマの一つである「江戸時代の女性の化粧」に視点をあてた企画です。現在、伊達博物館に展示中の江戸時代の女性の化粧道具類や、お化粧についての考え方、たしなみ、彩りなどに関する美術品をを見学した後、天赦園にて講座が開かれ大勢の女性(子どもから大人の女性まで)の皆さんが参加しました。講師はお香の講座でおなじみの山中瑞穂さんです。
 
 
江戸時代からの女性のお化粧道具は鏡をはじめ様々です。大変美しいものばかりです。
 


機能美(?)というか、使う女性の気持ちを考えた道具だと思います。
 
◎江戸時代の化粧は3色(赤・白・黒)のみ。
  
赤・・・紅/口紅・頬紅・目弾(めはじき)・爪紅(つまべに) 
    → 「古より顔とくちびるに紅を付つくることは女の粧なり」(『安斎随筆』)
       「紅はうすらかに顔の色をよそほふもの」(『安斎随筆』)
 
白・・・白粉 → 「女と生まれては一日もおしろいを塗らず顔に有るべからず」(『女重宝記』)
 
黒・・・眉墨・お歯黒 → 「歯なみ(並)よき人は口元よし、美人の相なり」(『女用訓蒙図彙』)
       「眉毛の作り方色々あれども顔の格好によりて作り方かわれり」(『都風俗化粧伝』) 
 
 大勢の聴講生でした。

      「べにばな」を乾燥したもの




 
◎赤(紅)の化粧
 
・頬紅・・・ 白粉に紅を混ぜて頬紅として使用。頬紅は薄く淡くさすことが好まれ、濃いのは下品とされた。
 
※頬紅の流行り廃り  頬紅が流行したのは、江戸時代前期。享保(1716~35)の頃より徐々に  廃れていく。 → 遊女の化粧と関連。
 
※くすみ防止のための頬紅(下紅)    地肌そのものを明るく見せるために、下地として紅を用いることもあった = 現在のベースメイク、コントロールカラーに相当。
 
・口紅・・・頬紅同様、薄付きが基本。小さな口(おちょぼ口)が好まれたため、唇の輪郭を白粉で隠し、唇を小さく見せる工夫が行われた。
 
※紅を「さす」=点す  →紅を少量、唇にのせ、小さく控えめに飾った。
 
※笹 ささ 紅 紅の流行(文化・文政期 1806~29)  
 
笹紅 = 下唇に紅を重ね付けし、玉虫色(笹色)にする化粧法。一世を風靡した紅化粧。 → 庶民が墨を使った裏技を考案、疑似笹紅化粧。「女の口紅笹色なるは一付け三十文」
 
 
おそるおそるでしたが昔の鏡に触りました。 
 

紅をとくとこのようなきれいな玉虫色になるそうです。赤い色がこのように変化しています。
 
 
・目弾き(めはじき)・・・目の縁や周辺に紅を付ける、現在のアイメイクに相当。役者の舞台化粧から派生したもの。それを町方の女中が真似たことに始まり、次第に広まっていったとされる。
 
※紅点し指  薬指の別称。薬指に紅をとってのせたり、紅を伸ばしたりした。
 
・爪紅(つまべに)・・・現在のネイルアートに相当。本来は身分の高い人の化粧だった。爪全体を赤く塗るのではなく、つま先に点状(ドット)の模様を描くようにして紅をのせた。
 
※紅のほかに、ホウセンカやカタバミで爪紅を施す。
 
 
 皆さん、熱心に聞いておられました。
 







 
◎白
白粉・・・京白粉(はふに又は唐の土→鉛白が原料)・・・・・塗り上がりは美しいが毒性を持つ。
 
伊勢白粉(御所白粉又はハラヤ→水銀(みずがね)が原料)
江戸中頃からは、生白粉・唐の土の3種となる。
 
※粉白粉・水白粉・練白粉
 
◎黒
「お歯黒をして半元服(結婚?)、眉と落として本元服(出産?)」
 
眉墨・・・眉を剃ってから眉墨(青黒い土・松煙墨)で様々に描く。公卿、武士にも広まる。
 
※捏墨は紫草の花の黒焼・油煙・金粉をごま油で練る。 → 堂上夫人
   麦の黒穂・油煙・墨、
 
お歯黒・・・鉄ね(かね)(鉄片と酢や酒で造る液)を火にかけて沸かし羽楊枝に五倍子末をつけて塗抹した後口を漱ぐ。 → ひどい様になるので家人にみられぬようにした!
 
※京の公卿の風習に染まった武士(平氏など)は薄化粧・お歯黒
 
※黒という色は、変色しない → 二君に仕えず・両夫に仕えない貞操


今日のワークショップは短い時間でしたが、江戸時代の化粧について体験した皆さんは満足されていたようです。当時のお化粧道具など、開催中の伊達博物館40周年記念特別展「天下の伊達 -武将のモードと文化-」にて展示中ですので、皆様ぜひ足を運んでください。なお、このワークショップの模様はNHKテレビ夕方のニュース610(ろくいちまる)でも放映されました。

開館40周年記念特別展 「天下の伊達 -武将のモードと文化 大徳寺・高台寺の名品を中心に-」

 9月5日(金)午後3時から、平成26年度特別展・開館40周年記念特別展の開展式及び内覧会を行いました。当日は京都大徳寺や高台寺、大津市の西教寺からもご来賓にお越しいただきました。厳粛な中にも華やかな開展式の様子をお知らせします。

60余名のご出席をいただき、エントランスホールで開会式を行いました。
 
  
 主催者を代表して、石橋寛久宇和島市長のあいさつで開会しました。
 


宇和島伊達文化保存会理事長・宇和島伊達家第13代当主伊達宗信様よりごあいさつをいただきました。 

 
     大徳寺宗務総長 戸田実山様よりご祝辞をいただきました。 
  

高台寺執事・圓徳院 後藤正晃章様よりご祝辞をいただきました。
 

             芳心会木村事務所木村宗慎様よりご祝辞をいただきました。




引き続いてテープカットを行いました。 続いての内覧会では、今回の特別展を担当した伊達博物館学芸員が今回の特別展のねらい、見ていただきたい点などについて詳細に説明を行いました。次回から展示の様子についてご紹介していきたいと思います。
 

2014年8月20日水曜日

平成26年度特別展・開館40周年記念特別展のご案内

   



         会 期:平成26年 9月 6日(土)~10月13日(月)


         開館時間:午前9時~午後5時 *入館は午後4時30分まで

 

         休 館 日:月曜日

         ※ 月曜日が祝祭日の場合は月曜開館、火曜日休館


              ※ 但し9月22日(月)は開館し、9月24日(水)は臨時休館いたします。


   


このたび、大徳寺、高台寺、樂家、樂美術館、西教寺ほか各所蔵者の皆様のご協力のもと、宇和島市立伊達博物館開館40周年記念特別展『天下の伊達 -武将のモードと文化 大徳寺・高台寺の名宝を中心に-』を開催する運びとなりました。

当博物館は、江戸期に入封後、幕末まで一度も領地替することなくこの地を治めた宇和島伊達家の伝来品を中心に展示を行う登録博物館であり、宇和島市政50周年事業の一環として、昭和49年に開館しました。今回40周年という記念の年に当たり、館の名称にもなっている「伊達」を前面に出した華麗な武将の「伊達と粋」をうかがわせる多数の名品の展示を企画しました。桃山期から江戸期にかけての武将のモードと文化に焦点をあて、織田信長、豊臣秀吉、伊達政宗など戦国期の武将に好まれた流麗かつ華美なモードを中心に、名宝の数々をご紹介します。多数の皆様のご来館をお待ちしております。



 


      宇和島市立伊達博物館特別展・開館40周年記念特別展

 

                『 天下の伊達 』

 

       武将のモードと文化 -大徳寺・高台寺の名宝を中心に-

2014年8月6日水曜日

天赦公園発掘調査現地説明会に参加しました。

7月20日(日)午前9時から、宇和島市教育委員会文化課による「天赦公園発掘調査現地説明会」が行われました。真夏の太陽がじりじりと照りつけるなか、大勢の市民の皆さんが参加していました。いまさらながら、ふるさと宇和島の歴史について、興味を持っている人が多いことを感じました。当日の配付資料をもとに、説明会の内容についてご報告します。
 
◆調査の概要
宇和島市天赦公園の配水管敷設工事に先立つ発掘調査において、宇和島藩主の御殿「御浜御殿」に関わる建物跡(土塀)を確認しました。今年1月の馬屋跡の調査に続いて、藩主御殿内の施設が発掘調査によって明らかとなりました。
 
調査地:宇和島市天赦公園  土地面積:1790平方メートル 調査面積:約60平方メートル
 
◆調査の経緯
平成25年度   国道拡幅工事に伴う市排水管移設工事について協議。県教委への届出を行い、発掘調査の勧告を受ける。
 
平成26年2・3月  国道拡幅工事分について県教委が試掘調査を実施。発掘調査の勧告を受ける。
      4・5月  愛媛県埋蔵文化センターによる発掘調査。土塀跡を確認。
 
        7月  宇和島市教育委員会による発掘調査。県埋蔵文化センターの調査で確認した              土地の延長を確認。
 

 
 
◆御浜御殿について
今回の調査地は御浜御殿のほぼ中央に位置しています。御殿内の区画は宇和島城側に政庁である御殿建物があり、西側及び南側は庭園及び隠居用の屋敷などの藩主のプライベート空間となっていました。今回の土塀は政庁部分と庭園部分を区画するものと考えられます。
 


 
◆御浜御殿の土地利用の変遷
御浜御殿は、明治維新以降7代藩主宗紀公の隠居所であった天赦園等の一部の施設を除いて、藩主の居館としての性格を失いました。御殿の中央には東西に走る道路ができ、特に庭園部分は水田となっていました。大正9年には豊後橋の南にあった宇和島中学が庭園部分北半部に移転し、昭和37年以降の国道56号線の整備、昭和42年の公園整備を経て現在の形となったようです。水田だった頃の当時の古写真によると、水田と道路の間に三角形の区画が確認できます。土塀礎石はあぜ道のような状況だったと考えられます。



 
◆調査によって確認された遺構
土塀跡  検出長:約50m  幅:約1m 最大高:約50cm
基礎は砂岩・礫岩の割石と自然石が混じり、1~2段積まれていました。矢穴(石を割るときのくさびの跡)の大きさは幅5cm程度であるため、江戸後期のものと推定できます。
 
側溝石列  検出長:40m  幅:20cm弱  最大高:約40cm
土塀基礎に比べて小型の砂岩石割が並んでいます。石の辺ではなく角を下にした積み方は明治以降のものと推定できます。
 
その他  土塀礎石を被覆する土はガラス片等を含み、出土した陶磁器も近現代のものがほとんどであったことから、グランド整備時の造成土と考えられます。
 



 
 
◆出土遺物
瓦、陶磁器等コンテナ1箱相当。
出土遺物のほとんどは近代以降の陶磁器でした。なかには伊達家の家紋である九曜紋の軒丸瓦、高級品である江戸期の色絵皿等も出土しました。また、近代資料のなかにも伊達家の家紋である「竹に雀」紋の小杯があり、注目される資料です。
 

 

 
◆今回の調査成果について
御浜御殿の姿がわかるものは、国指定名勝天赦園と伊達博物館の庭にある偕楽園以外には残っていません。そのため、御殿内部の遺構の位置などを推測することは資料が少なく困難でした。今回の調査で絵図と照合できる遺構が発見できたことは非常に大きな成果です。残念ながら今回発見した土塀の基礎は工事によりなくなってしまいますが、成果については天赦公園内に看板を立てて市民の皆様へお伝えする予定です。
 

2014年7月23日水曜日

「山家清兵衛甲冑」を展示しています。

和霊大祭うわじま牛鬼まつりが7月22日から24日まで開催中です。今日はなかびの23日、町中から笛の音が聞こえてきます。毎年、和霊様のお祭りの頃が一番暑いように感じます。宇和島の暑い夏を彩る一番の祭りです。先日から博物館にも夏休みで帰省中の学生さん、家族連れなどが大勢訪れています。また、この時期、宇和島市の姉妹都市から大勢のお客さんにも来ていただきます。宇和島のまつりを大いに楽しんでいただきたいと思います。

主催:うわじま牛鬼まつり実行委員会(宇和島市・宇和島市商工会・宇和島市観光協会) 
 
7月29日には、金剛山大龍寺にある和霊廟にて、山家清兵衛忌の法要が行われます。「おたまやさま」と呼ばれて、かつては縁日の露店なども出て賑わっていたそうです。昨年初めて行ってみました。大勢の参詣者で賑わっており、和霊廟では近隣の寺から大勢の僧侶が集まり、荘厳な雰囲気のなか、読経が行われていました。  
 

お祭りに合わせて、7月19日~7月29日(山家清兵衛忌)の間、伊達博物館では山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)所用と伝えられる「甲冑」と「刀」を展示しています。ぜひ博物館に足を運んでいただきたいと思います。

 伊達博物館蔵

 個人蔵
 

和霊騒動(われいそうどう)
和霊騒動は、元和6年(1620年)6月29日に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。
宇和島藩は、慶長19年(1614年)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に10万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執った。
初期の宇和島藩の課題は藩の支配体制を確立することであるが、宇和島は豊臣氏の時代から領主家が頻繁に入れ替わったため、領内は疲弊し藩は早くから財政難に見舞われた。その為、秀宗は父政宗から6万両を借り、それに当てた。その返済は寛永12年(1635年)まで続き、初期の宇和島藩にとって大きな負担となった。また、元和5年(1619年)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃元親が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は失脚する。翌6年(1620年)6月29日深夜、山家邸が襲撃され、山家一族は皆殺しにされた。秀宗の命により桜田玄蕃が襲撃したと言われる。
秀宗はこの事件を幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。これに怒った政宗は、五十七騎の一人で重臣の桑折左衛門を通じて秀宗を詰問して謹慎を命じ、幕府に宇和島藩の改易を嘆願した。慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩に仲介を依頼した。宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。事件後、桜田玄蕃をはじめとする山家清兵衛の政敵達が不慮の事故で相次いで死亡し、秀宗も病床に伏す。このことを「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は清兵衛邸跡に和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた。宇和島の子供たちは蚊帳を吊る季節になると両親や祖父母から和霊伝説を聞かされていた。
昭和61年(1986年)頃の「愛媛新聞」に、当時の山家家・桜田家の当主の「そのような伝説は聞いたことがない」旨の発言が掲載され、史実との対比が話題となった。

山家公頼(やんべきんより) 
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての伊達氏の家臣。通称は清兵衛(せいべえ)。
最初は最上氏に仕えていた。伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子である伊達秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・1000石)として付けられた。初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩10万石のうち3万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり、幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした。こうした行為が秀宗や桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた。また山家自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった。
元和6年(1620年)1月の大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が不正をしたと秀宗に讒訴したため、山家は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した。これは工事の進捗状況の報告で山家と桜田の報告に齟齬があり、山家が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだとされる。元和6年(1620年)6月29日、秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた。享年42。
この襲撃事件で山家のみならず、次男と三男も斬殺され、9歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された。あまりに幼子であったため井戸には祠が祭られている。さらに娘婿の塩谷内匠父子3人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた山家の母と夫人だけだった(長男は仙台にいたため無事だった)。
山家の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し、宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男宗実と次男宗時、六男徳松の早世、秀宗の発病などは全て山家の祟りとして恐れられた。このため承応2年(1653年)に秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった(和霊騒動)。ただし怨霊伝説がある一方で山家には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり、宇和島では山家は「和霊様」と呼ばれている。
山家は財政難の宇和島藩において質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせずできるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた。ただそのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた。遺骸は山家公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約60mの場所に密かに葬られた。また、山家公頼は蚊帳の四隅を切断され抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど領民に慕われたことが伺える。

                                           (ウイキペデイアより)


いろいろな言い伝えがあるようです。謎の多い宇和島騒動ですが、伊逹秀宗入部400年を迎える宇和島の歴史、ロマンを感じさせます。

2014年7月9日水曜日

出前授業を行いました。 「宇和島藩の参勤交代」 「幕末の宇和島藩」

 
7月1日、8日の2回にわたって、市内吉田中学校で出前授業を行いました。1回目は「宇和島藩の参勤交代」、2回目は「幕末の宇和島藩」というテーマ、1年生76名を対象に行いました。
 
吉田中学校の生徒たちは、小学校の時から自分たちの郷土「吉田町」についての学習を深めてきました。吉田三傑といわれる「山下亀三郎」「村井保固」「清家吉次郎」の3人の人物の業績を中心に学習を積み上げています。
 
また、以前ご紹介しましたが、宇和島伊達家の分家である吉田藩についての学習も重ねており、両替商であった「おかけや」について学習しています。今回の出前授業は、宇和島伊達家伝来の本物の古文書等を自分の目で見て、これまでの学習をさらに深めることを目的として行いました。
 
 
 
梅雨晴れの一日、体育館は蒸し暑かったですが熱心に学習しました。

  
                      幕末の宇和島藩で作られた蒸気船の模型も展示しました。


 宇和島歴史文化研究会の赤松副会長があいさつの中で、「吉田藩の藩主が参勤交代の時、「おふなて(御舟手)」から船で参勤交代に出発したこと」、「出発の合図はほら貝だったこと」などを紹介されました。「御舟手」は現存する吉田町内の地名です。


          江戸時代の藩の領地の図から「伊予八藩」について学習しました。


当館の学芸員による「幕末の宇和島藩」についての講義です。8代藩主伊逹宗城(だてむねなり)が開明的な主君だったこと、外国からの優れた技術を導入したこと、有能な家臣を養成し、適材適所の配置をしたこと、そのことによって幕末の宇和島藩が全国的に大きな役割を果たしたことなどを紹介しました。前原巧山(まえはらこうざん)による蒸気船作りのことも取り上げました。薩摩藩に次いで2番目に蒸気船を作ったこと、そして純粋の国産であったことなども紹介しました。

  
宇和島伊達家に伝来する古文書類を、実際に自分の目で見て学習しました。
 
 
               蒸気船の模型に興味津々でした。
 
 
            貴重な古文書類を展示。本物の迫力を感じます。
 
この出前授業は、宇和島歴史文化研究会と伊達博物館の共催事業として毎年行っています。今年度も市内小・中学校、中等教育学校から多数の出前授業の申し込みをいただきました。
 
あわせて、伊達博物館に小学生や中学生をお迎えしての出迎え授業も受け付けています。小・中学生の見学は無料、引率の先生方については減免措置が行えますので、気軽に連絡してください。
 

2014年6月29日日曜日

香港のテレビ局が取材に訪れていただきました。

伊達博物館を訪れる外国のお客様が増えています。なかでも韓国、中国からのお客さんが多いのですが、このたび、愛媛県国際交流課の案内で、香港のテレビ局スタッフの皆さんが、取材のために伊達博物館を訪れていただきました。香港のアジアテレビ(ATV)の皆さん方です。この夏から秋にかけて放映される「自遊自在食住衣」という新番組の撮影も行われました。
 
      入念な打ち合わせののち撮影開始。
 
 
                   伊達家の家紋「竹に雀」について紹介しています。
 
 
 
     番組では伊達家の歴史を紹介するとのこと。刀(模造刀)を持っての撮影です。


  
松根家に伝わる「生首の旗」の前でのリポートです。

 

リポーターは香港の人気歌手 蔡梓銘(Danny Choi)さん。長身で2枚目の好青年でした。






記念にサインをもらいました。「天下第一の伊達博物館」「元気」「幸福」・・・
蔡梓銘さん、どうもありがとうございました。


前日は高知県の四万十市で四万十川周辺の紹介、今日は宇和島市で伊達博物館、天赦園の撮影をしたあと大洲市肱川での「鵜飼い」撮影に行くとのことでした。番組は、8月から9月にかけてシリーズで放映されるとのこと、香港からのお客さんが大勢きていただけるよう期待しています。