2013年6月21日金曜日

博物館の庭を歩きました。

 台風が接近しているためか、昨日から雨が続いています。今年は空梅雨かと思っていましたが、やっと宇和島にも梅雨がきたのか?という感じです。今回も博物館の周りの様子をご紹介します。 

 国道56号線側から正門を入ると直ぐに庭(偕楽園跡)があり、宇和島伊達家8代伊達宗城侯の銅像があります。台座の碑名は伊達家12代当主伊達宗禮様、銘文は金剛山大隆寺飯田泰龍住職によるものです。





  


伊達宗城侯畧歴

 伊達宗城侯は、幕臣山口相模守直勝(第5代村候候の孫)の次男として文政元年(1818)8月江戸に生まれ、同12年(1829)3月伊達宗紀(第7代)の養子となり、弘化元年(1844)7月宗紀退隠の後を享けて宇和島藩第8代の藩主となりました。
嘉永元年高野長英を、同6年村田亮庵(後蔵六と改め更に大村益次郎と称す)を聘して蘭学の教授、翻訳、砲台の築造、軍艦の建造等 又洋式の砲術、仙術の研究をなさしめ、進取の藩主としてその英明を称揚せられ、松平春嶽 山内容堂 島津久光等大藩の諸侯に伍して天下の四賢候と称せられました。
 明治維新に際しては、枢機に参画して活躍し、明治元年(1868)5月参議に任ぜられ、明治2年民部卿兼大蔵卿、同3年には大蔵卿専任として國家財政の衝にあたり,明治4年(1871)條約締結の為欽差全権大臣として外務卿 柳原前光を帯同 清国に赴き大任を果たされました。
明治14年勲二等、明治22年勲一等、同23年には旭日大綬章を翌24年
勲功により嗣子宗徳(第9代)に侯爵を授けられ、明治25年(1892)特旨を以て従一位に叙せられて人臣最高の栄誉に浴し同月20日齢75東京今戸の自邸に薨ぜられました。
お墓は市内龍華山等覚寺にあります。         金剛山大隆寺 住職 飯田 泰龍  謹書
                                                     



5月頃は藤が満開でした。

偕楽園跡

 この庭は、江戸中期の縮景風池泉回遊式庭園の一部で、かつては豊富な、清流を取り込んだ、かなり大規模なものであったと推察されます。石組は、水蝕された砂岩を主役にし、橋など一部に緑泥片岩「伊予の青石」をあしらっております。このたびの復元では、やむをえず池を枯山水風にあらためましたが、年代を経た樹木の風格と石組のすぐれた技術が往時のすばらしさを偲ばせます。またこの庭には縁起のよい祝儀の庭「鶴亀」の形式が組入れられており、中島の亀島左後方の三尊石組等その面影が残されています。


 
博物館の駐車場側に松根東洋城の句碑があります。


    この句碑は松根東洋城、当市出身の書で松根邸址(当市御殿町)にあったものを遺族の希望によりここに移築したものです。松根家は羽前(今の山形県)よりうつった伊達家の家臣で由緒ある家柄ですが特に祖父松根図書は明治維新にあたり藩の執政として土佐の後藤象二郎等と共に大政奉還の王事に奔走した伊達藩の中心人物でした。
    東洋城は,夏目漱石を終生の師とし、はじめ俳誌「ホトトギス」によったが大正4年に「澁柿」を創刊、芭蕉の俳諧を尊び人間形成としての俳句の道を歩み定型派俳壇における貴重な存在として後進の指導に当りました。本名、豊次郎、京大卒、宮内省式部官、芸術院賞受賞、昭和39年(1964)10月28日東京において没す、  86歳

      島々や湾の外まで春の海 七十二叟
      わが祖先は奥の最上や天の川 東洋城
      三百餘歳家郷古東西存亡一碑孤
                             松根邸址



 先日訪ねた宇和島東高校にも松根東洋城の句碑があったことを思い出し、出前講義の折、写真を撮らせてもらいました。久しぶりに訪ねたグランドでは、野球部を始め多くの運動部の練習が行われており、活気に溢れていました。文武両道を実践している様子を見て頼もしく感じました。

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