2017年2月17日金曜日

ひな祭りの季節
 
今年もやってきました。
宇和島の保育園・幼稚園・小学校低学年の皆さん、是非おいでください。
期間は2月18日(土)~4月16日(日)
 
 
第3展示室
 
宝酒造「大宮蔵吉」氏寄贈の有職雛の展示が中心です。
その他、伊達家の雛調度を展示します。
 
 
段飾り
 
ひな祭りのひな人形の歴史を辿るとおもしろいかもしれません。
江戸時代後期、大名家では雛飾りをし始めました。
庶民の間に広がったのは明治・大正k時代でしょう。
大名家で有名なのは享保雛ですね。
 

2017年1月14日土曜日

2017年蔵開き

鏡開き
 
日本の風習に併せ、財団の蔵開きに参列しました。
最初のお祓い、これから始まりました。
 
 
神棚
 
蔵の前に設置された神棚です。
神事を行うための品物がそろっています。
神への供え物・・・
 

祝詞
 
厳かな儀式です。
先祖の感謝し、弥栄を祈念する祈り!

 
 
蔵開き
 
この間、払い塩(紙吹雪)をまき、蔵を開きます。
 
 
玉串奉奠の儀
 
第13代宇和島藩伊達家伊達宗信様。

 
参列者の方々
 
約30分程度の人事だったが、身も心も引き締まった。
 

2017年1月13日金曜日

ふるさと宇和島学 冬の陣

開講式
 
平成17年1月5日
博物館ロビーで「武士の手習い」の講座開講・・・
 
 
館内見学
 
今の展示は、今年の干支にちなみ「鳥たちの競演」のテーマで行っている。
子どもたち、驚きと喜びでいっぱい!
 
 
判子作り
 
別室で彫刻刀を使って判子を作った。
ものも言わず集中している。
 
 
完成!
 
朱肉を使い、確認のための試し刷り・・・
緊張の一瞬!
 
 
まもなく完成
 
時間的に難しかったが、作品はすばらしいものができていた。
現在、博物館ロビーで展示中!
このあと天赦園で「宇和島さんさ」の踊り、お茶を楽しむ予定・・・
 

2017年1月1日日曜日

年賀

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
 
平成29年元旦
 
宇和島市立伊達博物館
 
 
 

2016年12月31日土曜日

展示替え

「伊達の惟美」展終了
 
12月26日~28日まで展示替えでした。
重厚な展示で、ここ10年間で最高のものが並びました。
最終日の第一展示室、後は搬入するのみ・・・
平成28年もご愛顧を賜り感謝申し上げます。
 
 
平成29年コレクション展
 
鳥たちの競演
-宇和島藩伊達家、鳥尽くししの名品-
 
平成29年1月4日(水)~6月4日(日)
 
 
展示品目録
 

2016年12月22日木曜日

人物診断チャート

平成28年度後期展
「幕末・明治、伊達家の惟美」
特別企画
 
アイディアで伊達家の御当主にあわせて性格診断をする。
面白い試み・・・
その後当主の似顔絵を中学生に依頼し、書いて貰った。
 
 
取材
 
宇和島ケーブルテレビより取材を受ける中学生・・・
感謝の意を込め、博物館より記念品と感謝状を差し上げた。
 
 
似顔絵は宗紀公
 
生徒作品に見入る校長先生・・・
積極的に意欲を持って描いて頂き、感謝に堪えない。
絵は非常にうまく、これからの展示にも使わせて頂く。
 

2016年11月17日木曜日

豆本

豆本撮影
 
源氏物語を小さな本(縦横3cm)に書かれたもの。
そのデータを撮影に来られた四国工業株式会社のセットである。
 
 
画像撮影システム
 
四国工業独自で撮影機材を開発した。
画像処理ソフトは既成のものとか。
 
 
システム操作
 
細かな映像をデータ化するには細心の注意が必要である。
 
 
真剣そのもの!
 
 
貴重な豆本が拡大される!
 
この豆本は伊達秀宗の長男宗實と二代宗利夫人「稲姫」との共著。
この豆本、54帖すべてが書かれている。
 

2016年11月11日金曜日

今年度の特別展終了!
 
鹿児島からお借りしたものの返却は済ませました。
京都からお借りしたものの返却です。
 
 
京都三年坂美術館向けとなります。
 
 
お借りした貴重な美術品は厳重に梱包され美専車に・・・

 
ちいさなもの15点を積載
 
日本通運美術専門車のワゴンです。
長い旅、ご苦労様です。


2016年9月4日日曜日

平成28年度秋の特別展準備「海、遙か」

日通美術専門車
 
おなじみの美専!
担当者はもう、顔見知りである。
今回の集荷作業は「鹿児島県立黎明館」「尚古集成館」である。
細かな検品作業を経て下関泊まり、そして伊達博物館へ搬入・・・・
 
 
美術品
 
搬送入作業のプロ集団、日本通運の美術専門員たち・・・
世界に誇る集団である。
愛媛日通も信頼を置くことができる方々、存在感は大きい。
 
 

チェック
 
鹿児島で積んだ荷物を収蔵庫の入れる際、積み荷をチェックする。
業者、博物館の責任において行う大事な作業である。
 
 
収蔵庫
 
館内を搬送され収蔵庫に収める。
収蔵庫の気温23度、湿度60%は間違いなく確保されている。
ちなみに異常があれば、セキュリティ会社より連絡が入る。
それだけ保管には気を遣っているのである。
 
 
荷物
 
一つ一つにラベル添付がされている。
中身、個数などなど・・・
当然、お借りした館の名称なども前もって準備している。
このような細かな作業の連続は学芸員の仕事である。
つまり、借りてきて並べるのみではないということである。
このような裏話はあまり公表されていない。
仕事は見えるところだけではない。
 

2016年8月13日土曜日

あと一月

平成28年度秋の特別展
 
今年は幕末にパークスが宇和島に来て150年目の節目を迎える。
そのため、博物館では企画を立てた。
展示では、大英帝国から頂いた軍艦旗の展示を行う。
この旗は横6m、縦3mの巨大なものである。
代わりに大英帝国には伊達家の九曜紋の旗を差し上げた。
イギリスで探して貰ったが見つからないとのこと。
そこで復元した。
150年目の再会である。
 
 
パンフレット裏面
 
パークスは宇和島に来る前に鹿児島に寄っている。
当時の鹿児島は薩英戦争の後、イギリスと大接近を試みている。
その一環として訪問依頼をしたに違いない。
当時の文化財をお借りし、展示する。
重厚な展示になることは間違いない。
 

2016年8月11日木曜日

博物館実習

博物館実習
 
毎年この時期になると実習が入る。
依頼があれば、断らない。
ちょうど特別展の前で子どもたちが夏休みと言うところから多岐の研修ができる。
 
 
伊達博物館
 
といえば、天赦園での研修は外すことができない。
暑い日だったが、実習生、熱心に聞き入っている。
 
 
担当学芸員
 
宗紀公の揮毫による天赦園名の石碑の解説だろう。
 
 
館内研修
 
この日まで展示していた甲冑の撤去作業・・・
美術品の取り扱いなど研修した。
この間の学芸員の美術品の取り扱いは見事である。
美術専門車の方々からもお褒めの言葉をいただいた。
 
 
部品
 
すね当ての撤去
一つ一つ、焦らず、確実に片付ける。
白手袋、マスクは必需品である。
しかし、最近の取り扱いは館によって、素手で取り扱っているところもある。
 

2016年8月7日日曜日

夏休みこどもプロジェクト

プリンセスロイヤル・火輪船
 
天赦園の池走らせるイベントを依頼があればやっている。
暑い日だったが、子どもたちは元気に参加!
 

大村仁志氏
 
学校の教材会社の社長さんで伊達博への協力者である。
彼には無理を言って、いろんな政策をしてもらっている。
ほとんどがボランティア・・・
 
 
今回はみごとに走った!
 
前回、市長と歩こうの時には、風が強く、モータの力が弱いので逆走・・・
今回は力をアップしてスピード化をはかっている。
 

こどもたち
 
宇和島の未来を担う子どもたち!
宇和島の歴史を学ぶには良い機会である。
このように外での学習のほかに、伊達博物館内で別のイベントも・・・
クイズを解き、商品をもらうイベント、夏休み特別企画である。
 

2016年7月31日日曜日

「海すずめ」を見られた方も多いと思います。さて映画の中の「伊達図書館」の館長さんの名前を覚えておられる方がおられましたら拍手です。宮本真希さんが演じておられました。

大森監督にお聞きしました。伊達図書館(私立)の初代館長さんが、兵頭賢一先生、先生に敬意を表して兵頭館長の名前にしたとのこと。相当に伊達家について勉強されています。



 兵頭賢一先生生誕100年を迎えて

 津島町生まれの偉大な教育家郷土史家としてあまりにも有名な兵頭賢一先生が本年2月9日をもって生誕百年を迎え、町を挙げて顕彰の問題がとり上げられ、記念碑を建立することになりました。

 先生は津島町、当時の岩松村・芳原村両村の庄官兵頭通衛の長男として出生。愛媛県尋常師範学校を卒凛して教育界に入り25才の若さで津島高等小学校の校長となられ、当時は今の津島町となっている旧6ヵ村の組合立でありました。教育生活10ヵ年の問に大きな功績を残されました。後、宇和島に迎えられ、女子小学校(後の第二小学校)畏とならわ人徳豊かなひげの校長先生として17年6ヵ月、名門校としての輝かしい歴史を打ち立てられました。大正12年3月、退職後は伊達図書館主事館長として謹厳な中にやさしいまなぎしのお顔で23年4カ月にわたって勤められ、生涯のほとんどを宇和島市で過こづれ、その功績は教育上では学校教育、社会教育の両面で偉大な功績を残されましたが、さ

らに光を放っておりますのは先人未踏の細土史上の新しい開拓です。その業蹟は先生以前に先生なく、先生以後に先生なく、まさに後世に語りつぐべき学徳兼ね備えた偉大なお方とつくづく思うのであります。今先生の略歴を編集いたしまして功成り名遂げられたと思われる生涯ながら、私の感想はただ「お気の毒である」の一語に尽きるのであります。先生最大の目標の一端が北宇和郡誌(宇和島、吉田両藩誌ともいう)に示されているのでありますが、さらに学校退、伊達家史編纂(-さん)の大業を生涯の光栄と心をこめ文字通り心血をそそいで完成を急がれつつありましたのにこれを完成することなく他界されましたことで、これは先生にとっても伊達家にとっても我々南予人にとってもまことに悲しむべきことてありせす。さちに伊運家の維新時の功績を考えいたしますと、全国的にもまこ
とに遺憾なことでありでした。

第2小学校時代。県下で初めて奏任官待遇を受かられたとき先生は大正12生5月4日に、退聴後はじめて伊達豪家史編纂の起稿を合ぜられせした。伊達家では北宇和郡誌やその他の著書や論文で、すでに兵頭先生の人格と学者としての実力を十分認識されていたので、自宅勤務で差し支えなしとのありがたいお言葉でしたがそんなもったいないことほ出来ぬと毎日出勤されました。はじめは南予文化協会創立にニ荒伯を助けて図書館勤務とかけ持ちで忙しい毎日でしたが、やがて図書館主事として館長として、図書館経営に力を尽くしながら家史編纂に没頭されました。そして皇室との関係の深い伊達家の家史を書くことを無上の光栄と恐惶(-く)謹厳と、自宅においてすら羽織、袴(はかま)で書かれています。そしてこの研究の基礎は大正4年ころから着実に進められていたのでした。まず最初正確な伊達家の系譜系図を作ることに努力され、その完成後最初に維新の大功廣のあった宗城公伝から書きはじめられたのでした。この宗城公伝記の中心となった参考書は大正4年から昭和8年まで実に18カ年ににわけて東京の日本史籍協会発行の日本史籍叢書全187冊の大著述でした。その中で一番大切な本は伊遷宗城在京日記という700余頁ぐらいの一冊ですが、これは予約出版で一冊売りはいたしません。前金で700円を払われましたが、今のお金にしたら実に大金です。全部で187冊という大部数ですが、しかもその一冊一冊が皆大切な資料です。宗城公の履歴を語れば維新史全体を語らねばならぬほどの大功績のあったお方ですから、どれも尊い大切な資料で(津島町長室に保管されでいる。現127冊在庫60冊欠)全部次次と購入され丹念(たんー)に読まれ大切なところを書き抜き、書き込みや切り抜きを貼(は)り付けたりして伝記資料を作られました。

 また、この読書の外に重要な資料となったのは穂積家から提供されたと思われる渋沢栄一の名著徳川慶喜公伝全8巻。これは堂々4000頁に及ぶ大著です。渋沢栄一はもともと徳川の家臣で一橋家に仕え、後、明治初年、大実業家として500の銀行会社の創立や重役に関係した人物だけにあらゆる古文書や写真を入れた豪華版で、極めて重要な資料です。渋沢栄一の娘が陳重博士の夫人であるから穂積家に贈られたものを、先生に提供されたと思われる貴重な文献であります。その上に重要な資料となったのは、昭和12年1月に東京帝国大学編纂所から出版された維新史料綱要全10巻です。6、500頁の大著で、これも全部読破して重要個所を書き抜き、多くの資料を作られせした。このほかあらゆる維新資料の本を購入されるために、学校時代の俸給から退職金や月々伊達家からの手当、恩給などあらゆる収入のうち生活費を極度に切りつめて購入費にあてられました。そのため先生は生涯宇和島で家を買うことが出来ず、借家住まいで家を転々と変わられました。あえて買おうとされず学者としての良心に生きられたのです。

 この文献資料の上に、伊達家に伝わる宗城公関係の文書や藩日記書翰(-かん)類に至るまで詳細調査されての著述ですから、文字通りの心血を注いでの大事業です。このことに着目したのが県の教育会で、昭和5、6年ころから先哲偉人叢書を次々と刊行を計画して、愛媛の偉人の伝記を出版しておりました際でしたから、ての宗城公伝を兵頭先生に依嘱し200頁ぐらいにまとめてほしいと申し込んで原稿用紙を送っで来ました。これは一行34字詰めで14行の大型ですから、一枚が約旧菊版(A5版)の1頁に当たる。従っでページ数の算定に便利であるから、以後先生はこの原稿用紙を用いられるようになりました。さて先生は昭和9年ころすでにこの原稿用紙に2,000枚の原稿を完成させておられました。県の教育会はこれを200枚200頁に縮小せよと申し込んで来ました。2000頁を200頁というのですから、丸で無茶です。兵頭先生はせめて400頁はないと書けぬと再三断わられ、やっと317頁の本として出版されました。伊達家家史としての原稿の活字本となったのはこれだけで、原稿の7分の1ぐらいに縮約されるのに苦心されました。さてこの2,000頁の原稿はさらに慎重に検討され、書き足りぬところもあり、加除されたりしてやはり2,000頁ほどの原稿にまとめられ、東京芝白金三光町にありました伊達家家史編纂所に送られ、ここで高瀬代次郎氏を主任とする家史編纂会で検討され、出版の運びとなっていたのでしたが、出版寸前に大東亜戦争の戦禍による大空襲で烏有(うゆう)に帰したと伝えられ、疎開前に東京便りとして宇和島の兵頭先生に伝えられると、悲嘆のあまり頭も上がらず、気も狂わんばかりであったということです。しかもこの渋沢栄一著の徳川慶喜公伝全8巻も帝国大学出版の維新史料綱要全10巻も全部そのまま岩松へ寄贈されております。

 こかより先、この宗城公伝記が完成した後、すなわち昭和17年のはじめ、伊達家から引き続いて宗紀公、村寿公伝記の記稿を命ぜられました。宗城公の場合と同様先生は非常な感激をもってお受けになり、自分の生あるうちにこの二公の伝記のみならず全部を完成させるべく、身を清めてこのお仕事に熟中されせLた。ページ数は両公とも3,400首との要望でありました。これからは時代が古く遡ることになるので、前述の維新資料の上に南郷(春山公)重要庫内の旧薄日記をあさって両公の伝記資料をもとめる外、東京邸にある資料を借り入れたり、天敵園の御庫内の春山公伝記資料を克明に調査して原稿資料を作成、いよいよ出版出来る原稿として浄書されることになったのが昭和18年の始めころで、完成したのが19年の終わりころです。そのころには本文と付録と合計500声の原稿となり、東京編纂所に送ったとあります。(付録 宗紀公御年表144枚)

 さて、この稿がまだ完成せぬ昭和18年9月ごろから村寿公の伝記に着手されたのでしたが、19年1月から病気にかかられた。これはあまり精魂を尽くしての執筆で、夜半に及び、寒気がこたえての病気でしたが、それでも構わず床中で浄書Lたりして稿を急がれこれは400頁位で完成し、19年のおわりごろになると春山公伝とともに東京に送られたと思います。(付録 村寿公御年表127枚)このころ戦争はますますはげしくなり、これほ大変、この勢いで早く宗利、宗贇、村年、村候公伝を書き上げたいと、四公の伝記

資料の収集に熱中、暗い灯火管制のもとで整理をつづけ、いよいよ全部の伝記資料が整理され執筆の段階となり、宗利公第一原稿(269頁)を書かれた時、7月13日、第1回宇和島空襲のため図書館が直撃弾で焼失、やがて疎開となって中絶のやむなきに至っている。なお秀宗公伝は未完成ながら遺稿として残っている。まことに今一歩というところで遂に悲願は達せられず、戦争は先生の生涯にとって最大の痛恨時でありました。

 先生の略歴編纂にあたり、家史編纂の進行状態が不明確であるのは、先生が毎日入念に書き続けられた編纂の日記が、宇和島第一回の空襲で完全に消失してしまったためです。毎これは大正12年以来疎開までの貴重な記録的日記で、極めで謹厳なお方でしたので、細心の注意が払われ、万一東京の原稿が焼失するという事故にあっても、この日記と同じところに保管されでいる原稿となった伝記資料を照合すればすぐ復稿出来る万全の措置がとれる、いやしくも皇室と関係の深い伊達家の重要な記藤として永久に保存さるべきものとの確信のもと編纂の順に生月日を一日もらさずかカタカナで長期にわたり書き継がれており、金庫に納められでおりました。しかし不幸にも第一回空襲の焼夷(い)弾の猛火は、金庫内のこの日記さえほとんと全部焼失し、わずかに春山公小伝とわずかばかりの編纂日記と伝記資料が焼け残ったに過ぎせせんでした。

 出目に疎開されたのは20年7月16日で、これは西部軍監司令部の強制疎開命令によるものでした。先生は空襲がはげしくなっても、図書館長としての責任上疎開は出来ないと思われ、とどまっておられたが、図書館が焼失したのを期に退職願いを出された。伊達家は家史編纂の仕事は終了間近でもあるし、先生を深く信頼されていたので、疎開してもよいそのままそのまま名をとどめよとのことであったが、「それでは疎開はできせせん。軍司令部から老人、子供、妊婦は対空防火の妨げになると強制疎開を命ぜられております。また私は病気で職責が果たせ卓せん」と退職願いを出してその内諾を得て疎開されました。まことに責任感の強い謹厳な性格がうかがわれます。

 出目へ疎開されでからの先生はまことにお気の毒であった。戦後の困難な国内情勢のきびしさに国を憂い陛下の身の上を案ぜられ、心血を注いだぼう大な原稿の焼失-老衰に加うるに精神的な大きな打撃は、先生の健康を著しく害し、たしかに数年の寿命を縮めたと思う。それでも焼け残った春山公小伝の改稿をして私費出版をされようとしたり、郷土史関係の随筆を書きつづけられ、これは漫談だと言っておられるが、多年郷土史の著述や論文にとりくんで来られた方の体験は実に尊い著述であったと思われます。それは200数

十頁が書き終わり、さらに2冊を追加、現に書きつづけていると書いてあるので、500頁近いものとなったと思われます。これらの遺稿も今はまったく行方がわかりません。まことに惜しいことです。 先生は貴重な原稿でも本でも、何でも惜しげもなく人に与えられた。これは若くして津島高等小学校長時代、北灘慈済寺におられた足山道源師について深く仏教の研究をされ、仏陀(だ)に帰依されついに晩年は八幡浜大法寺の禾山和尚を信仰され、死する時、身に一物も持たず身につけずの大聖の数えを身をもって示さかたことの現われと思われます。自分の生涯の感想を書いた10数冊の回顧録も自ら焼き捨てられ残されておりません。四40力年にわたって全財産を投じて買い集められた千数百冊

の本も、自分の真価を知って信頼してくださった伊達家のために、また白分を暖めはぐくんでくださった宇和島の人なのために、伊達図書館に全部を寄贈すると心に定めておられましたが、戦争によってその悲願が達せられなくなると、思うはなつかしい故郷津島のこと。ただ自分は一塊の土になりたいと、津島の教え子の乞(こ)うままに全部、故郷岩松へ寄贈されました。まことに仏心に徹したお方でございました。思えば先生の生涯の悲願、それは北宇和郡誌に続いてさらに維新後期も含めた伊達秀宗公以来宗城公に至るまでの大南予史の完成であった。それは伊達藩政史を通して、我々の先祖が歩みつづけた血のにじむ生活史を含めた政治、経済、教育、風俗などあらゆる文化の歴史を掬(く)みとることの出来るほう大な郷土史の完成であったと思われます。それが完成寸前にして戦禍によって無惨に断たれたことを悲しく思うのであります。

 この悲しい思い出の中に迎えた生誕100年に、一つの喜ぶべき事実を知り、この喜びをかみしめております。

 それは、この心血を注がれた最後の原稿春山公伝、村寿公伝の奇跡の生還である。昭和25年死去される前、戦禍で焼野が原と化した東京の貨物専用駅汐留駅の焼け残った倉庫の片隅にただ1個、宇和島伊達家行きの荷物が転がっていた。早速宇和島に送り返され開いて見ると、これが何と兵頭賢一先生最後の原稿春山公伝、村寿公伝であろうとは。まさに、奇跡というよりは、神霊仏陀の加護によるとしか思えません。伊達家の使者がこれを宇和島笹町で静養中のお宅に持参しますと、病床にあって立つことはできませんでしたが、うれしさのあまりただ言葉なく涙がとどまらなかったとのことです。これは現宇和島伊達出張所長宮本正男氏のお話で、その遺稿を目のあたり拝観させてもらいましたときの感激は、いつまでも忘れることはできません。これは将来、何らかの形で先生の記念図書として出版される日を期待してやみません。先生の生誕100年を迎えて、この遺稿が永遠の名著として出版される日の早からんことを祈ってこの稿を終わります。

 この文章は、昭和48生2月13日、14日の両日、郷土の新聞「新愛媛」に連載されたものの再録である。                  津島町 (曽根和男記)

 

2016年7月17日日曜日

博物館玄関修復工事
 
昭和49年開館当時からの玄関
足下に空洞が・・・
盛り上がっている。
もし、落下すれば大けがになることから工事をすることにした。
表面をはいでいるところです。
 
 
工事機械
 
コンクリートカッターを使用していた。
その機械と発電機
 
 
内部処理
 
そしてセメント工事
雨の中、工事も苦労している。
 
 
地面
 
ほかに影響がないよう覆いを掛けた。
 
 
閉門
 
事故の無いよう固まるまで門を閉めた。
現在は開けているが、通行できないようにしている。
 
 
19日より通行可
 
落ち着いているので明日18日より空ける予定・・・