2011年2月27日日曜日

子を思う親

24日の読売新聞の朝刊に掲載された記事。独眼竜「口利き」依頼書状をボランティアガイドの方に持参いただいた。内容を見ると今まで推測だったことが、現実味を帯びてきた。

秀宗に宇和島10万石が与えられたのは、父政宗が政治的に動き、実現できたという裏付けの証明となる。側室の子、秀吉の猶子となっていたため、仙台藩の跡継ぎにはできにくい。そこで、この口利きの依頼状となったと思われる。この書状は徳川家康の腹心本多正純に送った「身上之義」で土佐藩士の子孫の方が保管されていた。高知県立歴史民俗資料館を通じて、伊達家に詳しい仙台市博物館が筆跡、政宗の花押などで確認した。(読売新聞を要約)

大坂冬の陣のため、家康が京都二条城にいた1614年11月10日付での書状。このあと政宗は家康と面会する。政宗と秀宗はこの後、冬の陣に参戦し、その功績で10万石の宇和島藩を与えられることになる。東北の雄、政宗に対する徳川家の思惑は、秀宗の婚儀に対しても徳川の重臣、井伊直政の娘「亀姫」を嫁がせたことでも分かる。

しかしながら政宗の心の不安は計り知れない。秀吉、家康の人質として甘やかされ、育った境遇を特に心配している。宇和島入府の折には、仙台藩の家臣の中でも選りすぐりの57人をつけて送り出している。世に言うところの「伊達57騎」である。

2011年2月25日金曜日

収蔵庫空調完成

1月より始まった改修工事が完成した。23日最終チェックの温湿度を計測したところ、予定通り温度23度(誤差±1度)、湿度60%(誤差±3%)。見事に表示している。これで安心して展示するものの保管管理ができる。

     空調調整盤                                空調調整盤内部

 
 


2011年2月21日月曜日

「宇和島さんさ」の踊り

「宇和島さんさ」の由来については前に書いた。その踊りの写真がどうしても見つからない。踊り終わって歩いている姿とか、小さなWeb上のものはあるが、鑑賞に堪えない。博物館が探していることを聞いた方が、「宇和島お城祭り」でお城の前で踊っている「宇和島さんさ」の写真を持参さんしていただいた。感謝とともに掲載させていただく。宇和島武士のプライドをかけた歌であり、振り付けられた踊りも格式の高いものとなっている。今後の復活を祈念して・・・(撮影者は不明)



2011年2月19日土曜日

ひな人形展

恒例のひな人形展が始まった。宇和島の園児達、児童たちの夢をふくらませるこの展示。この展示は、同時に宇和島藩伊達家の歴史を知ることにもなる。目を輝かせながら、この人形は何? 大きさは? 数は? などなど質問が飛び交う。会期は4月4日(月)までとなっている。広報などでは3日までとなっているが、宇和島地方のひな祭りが4日(月)ということもあり、休館日だが開けることにした。

大宮庫吉氏より、寄贈いただいた「有職(ゆうそく)びな」は幅7m50cm、五段飾りの見事なものである。その展示の苦労を見ていただきたい。最初に位置決め、そして段の骨組みの組み立て、そして緋毛氈を敷く作業、そして、ひな人形や調度類を並べる作業となる。流れは簡単に書いたが、繊細な手際、力仕事と時間、館の職員全員が力を合わさねば展示できない。大宮家のひな人形だけではない。享保時代に作成された鍋島家から7代藩主宗紀公に嫁いできた「観姫」のひな人形も展示に工夫、苦労をする。いずれも歴史的価値のあるものであるため、細かい所に神経を使わねばならない。実質展示替えには、まる二日かかる。

その他、伊達家に伝わるひな調度類も展示している。見たことがある方も、見たことがない方も是非この機会に伊達博物館を訪れていただきたい。
                                 大宮家の有職びな(館蔵品)


2011年2月13日日曜日

樺崎砲台跡

幕府から沿岸防備の命令により宇和島藩もそれに従っている。その大砲の製造に関わる反射炉の建設も盛んであった。この遺構は各地に残っている。韮山、萩、佐賀、水戸、薩摩など。宇和島藩も鋳造するための施設を作っている。その場所は宇和津彦神社の下あたり。余談ながら、火縄銃や前原巧山の蒸気船の蒸気機関もここで作られている。

先日、ある方より樺崎砲台の石碑の文字について問い合わせがあった。碑の文字が消えかけているが、記録があるのかというもの。早速、整備されている砲台跡に出向いたが、文字を読むことができなかった。その後の調査で碑文が本になっていることを知った。現在、貸していただけるようお願いしているところである。時期を見て掲載したい。次の樺崎砲台に関する説明は「旧宇和島の自然と文化」よりのもの。写真と併せて見ていただきたい。

市指定史跡 樺崎砲台跡                                 所在 住吉町
 安政2年(1855)3月から12月にわたり、10か月かけて宇和島湾の守りとして築造された砲台の跡である。
 黒船とよばれた外国艦船が、日本近海にも出没しはじめて、鎖国政策を久しく続けてきた幕府は、沿岸諸藩にその防備を固めるよう命ずるにいたり、宇和島藩では、すでに嘉永3年(1850)高野長英の設計で、御荘久良に砲台が完成、のち宇和島湾にも設けようとしていたが安政元年(1854)の大地震のため民力の疲弊を慮り、その計画をいったん中止していた。
 ところが、二宮長兵衛在明という篤士家の出資申し出があり、藩もついに樺崎砲台築造に着手し、宇都宮九大夫綱敏、松田源五左衛門常愛を奉行としてはじめた。
 玉か月の山や遊子の海岸から石や土砂を運び、山をきり海を埋めて構築し、5門の砲がすえられていた。のち慶応2年(1866)宇和島に来航したイギリス軍艦に対して礼砲を撃ったことが、アーネスト・サトウの記録に見られ、実戦には役立つものではないらしいとも記されているが、宇和島藩が西洋造築法を導入して成ったものの一つとして意義が深い。
 砲台跡傍らに竣工を記念し、その経過を記して、安政3年(1856)に建てられた碑石が今も残っている。碑文は藩学明倫館教授金子孝太郎の撰になるものである。
 その後、元治元年(1864)湾の向かい側の戎山にも砲台が築かれた。

2011年2月9日水曜日

天赦公園整備

天赦公園整備事業が着々と進んでいる。この場所はお浜御殿のお庭、偕楽園跡である。つまり伊達博物館の前で写真は市道であるが、昔は偕楽園内であった。写真の松は伊達宗城と西郷隆盛が会見をした場所に植えられている会見の松である。公園は芝生が主で木々が植えられると聞いている。撤去工事の期間は2月末までで、その後、芝生など植栽の工事が始まる。

                       西郷・宗城会見の松


2011年2月2日水曜日

おしどり

一昨年の後期展に應挙の「みずどり」と「鯉」の軸を展示した。この軸は屏風だったものを軸仕立てにしたものといわれている。そのため一つの題材が6本の軸となっている。その軸の前にちょうど天赦園の池に来ていた「おしどり」の写真を展示した。天赦園におしどりが来るのは始めてとか。おしどりは雄が派手な色合いで、雌はくろっぽく目立たない。子育てのため天敵から子どもを護るため目立たないのかも知れない。おしどりは、かならず「つがい」で移動すると聞いていたので、雌を探したが見つけることが出来なかった。警戒していたのかも知れない。

条件的に難しかったが、おしどりの羽もガラスケースに入れ軸の下に展示した。

天赦園のおしどり

天赦園のおしどり