2011年1月30日日曜日

雪の日

 今日は朝から雪模様でした。一時は北の国と見間違うばかりの吹雪。牡丹雪ながら見る間に雪景色となりました。博物館の庭には藤(伊達家が藤原の出)と家紋の竹に雀から竹が植えられています。この寒い雪の中、目的を持ってお客さんは来ていただきます。展示の一つ一つに心配りが必要だと改めて感じました。

                         偕楽園の藤棚


2011年1月29日土曜日

収蔵庫空調工事

収蔵庫の改修工事が始まった。機器類の搬入から室外機撤去作業、天井裏の二つの空調機器撤去が始まった。室内温度23度、湿度60%の設定のためには、部屋を二重にする必要がある。つまり魔法瓶を想像してもらいたい。間の空気の調節で道具類の環境変化を抑える働きのためである。もう一つの大きな作業は、温度変化を一時間あたり0.5度単位にしなければならないこと。何よりも急激な変化というのは品物に悪影響を及ぼすからである。

                                                      空調工事のための車


2011年1月25日火曜日

勤王僧「晦巌」

 金剛山大隆寺をたびたび訪れる。境内の池の上に大きな石碑が建っていることに気付いた。碑銘は「晦巌禅師碑」。晦巌は金剛山大隆寺の15代住職。幕末に生きた勤王僧でも名高い。ここには貴重な資料、市指定の有形文化財「晦巌日記」が保存されている。この解読に「晦巌日記学習塾」が毎月開催されている。晦巌老師の書は達筆で癖があり、解読は難解を極めると聞いている。

  面白いことに昭和22年城北中学校の先生よりの寄贈で、この晦巌日記の写しが博物館にあることが分かった。解読ではなく、字そのものを丁寧に写し取ったものである。誰が模写したものかは調査したが不明であった。


2011年1月20日木曜日

高野長英砲台跡(愛南町久良)

蛮社の獄により投獄される。火事に乗じて脱獄し、幕府のお尋ね者になった長英は宇和島藩伊達宗城の招聘により宇和島に入り、家老である桜田佐渡の別邸に居住するようになった。彼の変名は蘭学者伊東瑞渓という。嘉永元年(1848年)4月のことである。彼はここで藩士たちを教えたり藩のために蘭書の翻訳に努めた。また、宇和島藩の軍備の近代化にも携わり、愛南町久良の砲台の設計築造に従事した。なぜ久良なのか? 外国船の上陸拠点とならないように宇和島藩の南の要として築いたと言われている。

現在の砲台跡は石垣のみ残り、当時の面影はない。久良湾から豊後水道に視界が開け、養殖筏が、ただ見えるのみ。この湾の水深は深く、以前には太平洋戦争で使用されていた紫電改も海中で見つかり、現在は馬瀬山に慰霊・展示されている。

設計図(財)宇和島伊達文化保存会蔵        久良高野長英砲台跡(地図)            

   
   
     



2011年1月19日水曜日

蔵開き

18日は財団法人伊達文化保存会の蔵開きでした。博物館からは5人が参列しました。本来の蔵開きは11日ですが18日に執り行いました。

なぜ蔵開き、鏡開きは11日なのでしょう?

正月には「大正月」「小正月」があって、大正月は元日~7日まで、小正月は昔の暦の満月(15日)を中心に11~16日まで(地域によっては20日まで)です。主に小正月は農民の行事だったようで、武家は小正月の始まりを正月の終わり=仕事始めにしたのではないかと思います。武士は具足開き、商人は蔵開き、道場では道場開きですね。また商人は縁起を担ぐので、11日は左右対称の観音開きで商売繁盛を祝うという意味もあるそうです。

         宮司さん                          財団と博物館員


 

2011年1月16日日曜日

雪の宇和島城

期待に反して雪の積雪量は少ない。しかし、気温は低く道は凍結状態だった。伊達家のお殿様も雪道を歩いて登城されたことを思えばと登ることにする。上り立ち門より、代右衛門丸跡を通り、二の丸から天守へ。(一般客は通行禁止) 帰りは井戸丸を通り、御殿側に再び降りた。城山は観光客の方が2、3人と清掃の方達、写真撮影の方しか上がっていなかった。宇和島城3つの井戸も併せて鑑賞をどうぞ。

                   上り立ち門(御殿からの登城門)


2011年1月13日木曜日

本の紹介

続けて本の紹介をします。以前、青年松浦武四郎で紹介した宇和島ご出身の作家で木下博民先生が居ます。正月の3日にはこの松浦武四郎についての「歴史シンポ イン 宇和島」がケーブルテレビで放映されました。先日はNHKラジオで全国放送されたとも聞きました。

先生の著書は多く、宇和島関係のものが多くあります。ごく最近の出版された「評伝 森岡天涯」は広範囲にわたって調査され、歴史に残る素晴らしいものでした。是非、ご一読されると良いと思います。

この方にはもう一つの顔があります。南豫明倫館館長という重責も担っておられます。この南豫明倫館とは何かは、先生の著書「南豫明倫館」をお読みください。博物館運営もこの方のご指導や協力していただく方々に支えられていることを改めて感じる次第です。

評伝 森岡天涯 表紙


2011年1月12日水曜日

屋上からの風景

空調の調整のため屋上に上がった時、四方を眺め博物館からの風景を撮りました。御浜御殿があった場所に博物館は建設されています。御当主が眺めた風景とは違っていますが、お城方面は昔も今も変わらないと思います。数百年前に思いをはせました。

                        北方面(宇和島城)


2011年1月11日火曜日

空調異常

1月8日の土曜日の午前4時、空調異常で警備保障のセンサーが発報。館員がひとまず、電源を切り、業者に連絡。調べてみると前の晩の氷雨が、寒波襲来によって室外機が凍り、空調のファンが回らなくなったことによると判明しました。昭和49年開館依頼、初めての出来事とか。

展示品に漆器類も多くあり、特に冬の間は乾燥するので温度と湿度が大切です。(財)伊達文化保存会と協議し、文化庁の指針に基づき、設定温度は23度、湿度60%にしてあります。

この様なことが二度と起こらないように、霜取り用のセンサーがこまめに働くようプログラムを設定してもらいました。写真は凍り付いた室外機とプログラムするためのコードを出しているマイコン部分です。

                        展示室用室外機

2011年1月8日土曜日

宇和島藩の紹介

歴史ブームに乗っかってか、雑誌社からの依頼がよくある。伊達博物館に於いては、ほとんどの展示物が伊達文化保存会の所有物なので、許可を頂き執筆するようにしている。今回は宇和島藩伊達家について紹介(4ページ)をしていただいた。雑誌は「週間 江戸」-町火消の誕生- DeAGOSTNI No:45 のもので昨年の12/7号 定価580円。著作権問題があるため表紙のみアップし、記事の掲載は控えますが、是非ご一読ください。 

2011年1月7日金曜日

宇和島藩伊達家

年明け早々に友人Kくんよりメールが来ました。中津藩奥平家と宇和島藩伊達家の繋がりについて述べてありました。彼は年末より、写真の「撮り歩き」に国東半島から中津、耶馬溪まで足をのばしていました。Kくんに断りを入れ、中津城の写真及び中津城のパンフレットをアップします。中津城は海城で名高いお城です。ついでながら彼のブログサイトです。
http://uwatu.blog135.fc2.com/ 「撮り歩き」

中津藩奥平家は宇和島藩伊達家の宗城の四男、昌邁(まさゆき)が養子に入っている。彼は奥平家第9代として明治維新を迎える。中津藩は洋医学の前野良沢や福沢諭吉の輩出で名高い。昌邁公も慶應義塾に入り、福沢諭吉のすすめでアメリカ留学をする。残念なことに明治17年30歳の若さで亡くなっている。
                      宇和島藩伊達家系図


2011年1月5日水曜日

明けましておめでとう御座います

 1月4日(火)より開館しています。伊達博物館では展示替えを年二回、それと企画展を二回(ひなにんぎょう展、秀吉像展)、そして恒例ともなった秋の特別展を開催します。昨年より、第四展示室では寄託品や寄贈品の展示も開催しています。(年始めは、収蔵庫改修のため閉じています。)

 いろいろな方より、アイディアを頂き、少しでも喜んでいただけるよう改善していきたいと考えています。ぜひ、ご来館下さり、ご意見を頂ければ幸いです。