2013年7月31日水曜日

平成25年度後期展  『長寿、宗紀 -長寿大名100年を謳歌- 』 ご案内 (その3)

第3展示室テーマ 「  福寿、宗紀(むねただ) 」   




     100歳という長寿を全うした宗紀。明治22年、100歳になった宗紀を祝うため百歳祝の宴が開かれました。明治天皇はじめ、親しい大名、親類はもちろんのこと、宇和島市全体を挙げて老若男女に至るまで多くの人が宗紀を祝ったようです。
      本展示室では、その祝いの様子や、長寿祝いの品の一端を紹介します。隠居後余生を過ごした天赦園の様子や宗紀自作による作品も併せて公開します。

※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。


伊達宗紀 書 「龍出洞門常作雨 鶴巣松樹不知年」

明治22年、宗紀百歳の書。勢いに満ち溢れる書入れである。宗紀は宇和島邸で鶴の飼育をしていたとされ、また山内(やまのうち)家から(番(つがい))の鶴を贈呈されるなど、鶴を愛していた様子が伺われる。


 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 

 赤楽茶碗(あからくちゃわん)  楽吉左衛門(らくきちざえもん)作

楽焼は千利休が大成した侘び茶好みにかなうよう、天正年間に長次郎が創出したと伝わる。本資料は長次郎を祖とする楽家10代旦入作の赤楽。
                                            

                    公益財団法人伊達文化保存会蔵            


  
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   瀬戸物染付福寿文 平皿(せともそめつけふくじゅもん ひらさら) 

「福」の字の中に「寿」(ことぶき)の字が組み込まれたおもしろみのあるデザインが人目を引く。中央の文字を囲むように幸・菱・七宝・青海波などの吉祥文様が染付される。


 公益財団法人伊達文化保存会蔵



   伊達宗紀 書 「楽春」

「九淵」(きゅうえん)は宗紀の号。本資料には、宗紀の代表的な号「春山」の「春」の一字が含まれる。季節の春そのものを楽しむ心を自身に重ね合わせての書か。 

                              
                    公益財団法人伊達文化保存会蔵

               
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伊達宗紀 書 辞世短冊

  辞世 遺言 「 よきも夢 あしきも夢の世の中を 捨てて今より後は極楽 」   春山


                    公益財団法人伊達文化保存会蔵


                 父、村壽(むらなが)について

   宗紀の父、村壽は5代藩主村候の四男。在任中は天明の飢饉により藩財政が窮乏し、たびたび倹約令を出す。宗紀の記録に倹約家としての一端が見受けられるのには、こうした父の姿を見ていたことも影響していると考えられる。村壽は家督を宗紀に譲った後「甲長館」を建て、隠居大名として余生を送っている。
 伊達家の記録や伝来品から、宗紀が村壽を慕っていた様子が想像される。能好きの父村壽とともに能見学をし、あるいは稽古相手をつとめ、また村壽が隠居後慰みとして興じた楽焼の趣味を偲ぶかのように宗紀作の楽焼茶碗も伝来する。
    村壽が病に伏せた天保7(1836)年には、幕府へ帰国願いを提出し、父の病気見舞いをしている。幼くして実母を亡くし、複雑な環境を経て藩主として君臨した宗紀であるが、遺された記録類から父に対する敬愛と感謝の心を偲ばれる。   
                                                                                  ※宗紀の年齢は官年(公式記録)を採用
                                       

長寿大名、宗紀に関するエピソード集    (  「春の山影」より引用、要約)

宗紀の大笑い
~偽物発見を笑い飛ばす~

◆明治10(1877)年 6月17日 88歳
竹場所持の文徴明ノ書ト云フヲ御覧、偽筆トテ大笑遊バサル、ト
竹場(人名)が持っている文徴明の書(有名な書家の、めったにない貴重な書)というのを見せてもらったところ、それが偽物(にせもの)だったので宗紀は大笑いした。

◆明治16(1883)年12月12日 94歳
御書ノ偽筆出ヅ、御覧アリ「實ニヨク似セ候モノ」ト御笑ヒアリ
宗紀の書の偽物が出てきた。それを見て「実によく似ているなぁ!」と笑った。
                                                         

~性質は不器用だった!~

    若い頃から日本や中国の名筆古法帖などで練習したが(自分の)性質が不器用で簡単には上達しなかった。ふと、唐伯虎の軸物を手に入れ、これを壁にかけて朝夕習字をしていると、偶然揮毫の秘訣(ひけつ)を悟(さと)り、それから少しずつ書道が上達していった。
 書は単に字形を習うだけでは上達せず、昔の人の手跡(しゅせき)にはそれぞれ習うべき秘訣がある。これを心がけて工夫を積むことが大事だ。
     (揮毫=きごう、筆で書を書くこと。)
     (唐伯虎=とうはくこ、唐寅<とういん>。明代四大画家の一人で、詩の名人。)
                                                                   

~99歳「回生(かいせい)翁(おきな)」~

~明治20年の罹病~
    初めは軽い風邪、それから発熱、胸部の痛み、腹部の痙攣(けいれん)、吐気・水瀉((すいしゃ)(下痢)・頭痛。8月には少し軽くなり、9月に入ると、顔部の腫物(はれもの)・上顎のただれ・口内水疱疹・顔面水泡ロースなどがつぎつぎに見られたが、10月末から11月にかけて回復に向かい11月下旬近くに全快し床上げ祝宴。
    長病からの平癒を喜び、年末に作る来年用の印は、「九十有九叟」と共に「回生翁」(回復した男の老人)を命じる。                               

~「通れーッ」~天赦園の拝観~

    宗紀の存命中、毎年4~5月は天赦園を一般市民へも開放していた。宗紀はこれを一つの慰みともしていたようで、時には縁側へ出て見ていたこともあったという。ある老人の話によると、そうとも知らず入園した市民がご隠居様の急な登場に恐れ入り、まごまごしていると、宗紀は大きな声で「通れーッ」と言ったという。
                                                          

 ~健脚(けんきゃく) 階段を手放しで昇降~

     90歳の頃までは、2階への階段を手放しで自在に昇降していた。この階段はとても勾配が急で、手すりの側に頼り縄を附けており壮者(そうしゃ)(働き盛りの人)でさえ手放しでは困難なのを、少しも危なげなく上下していたという。                                                                                    
                                                                                          



※ 今回の展示に合わせて、第3展示室では修復作業を終えた「東海道五十三次蒔絵組杯・黒塗牡丹蒔絵杯箱」を展示しています。現在の修復技術の粋がうかがえます。ぜひご覧ください。

東海道五十三次蒔絵組盃・黒塗牡丹蒔絵盃箱
(とうかいどうごじゅうさんつぎまきえくみさかずき・くろぬりぼたんまきえさかずきばこ)

盃は朱塗りに金・銀を使って東海道にあった53の宿場が描かれる。盃を収納する箱は、蝶をかたどった蝶番で連結され、黒塗りに牡丹が蒔絵される。

公益財団法人伊達文化保存会蔵


公益財団法人伊達文化保存会蔵




公益財団法人伊達文化保存会蔵


(部分を拡大したもの)
公益財団法人伊達文化保存会蔵













2013年7月23日火曜日

「うわじま牛鬼祭り」 真っ最中です。

今年も、宇和島の夏を彩る「うわじま牛鬼祭り」が7月23日、24日の2日間(22日は前夜祭で「ガイヤ・カーニバルがあります。)、盛大に開催され、宇和島はお祭り一色になります。


 (主催:うわじま牛鬼祭り実行委員会)
(宇和島青年会議所)

 子どもの頃から「和霊様のお祭り」と呼んでいましたが、先日、知り合いの小・中学生に、「和霊様のお祭り」について聞いてみました。和霊様に祀ってある人や、いわれについて知っている子はあまりいませんでした。

お祭りに併せて 7月23日~7月30日の間、伊達博物館では山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)所用と伝えられる「甲冑」と「刀」を展示します。ぜひ博物館に足を運んでいただきたいと思います。

伝 山家清兵衛公頼所用の甲冑



伝 山家清兵衛公頼所用の刀


どうして和霊神社はできたのか?

お祭りはなぜこの日なのか?

和霊神社は何故市内に2カ所あるのか?


(宇和島の地域情報紙である「きずな」夏号に、特集として「宇和島騒動」のことが詳しく書かれていました。)


(金剛山大隆寺)

毎年、7月29日に、山家清兵衛公頼の墓がある金剛山大隆寺の和霊廟で行われる「おたまや祭り」も、知っている人が少ないのか、寂しくなっているとか・・・・

              今年はぜひ行ってみたいと思います。



「出前授業2013」 実施中です。

「出前授業2013」 県立宇和島南中等教育学校に出かけました。


この出前授業も、今年で6年目を迎えました。「来て見てもらうことから脱却し、出かけて説明し、子どもたちの歴史に関する興味や関心を呼び覚まそう。」そして「宇和島伊達文化に関する理解を通じて、「ふるさと宇和島」に対する愛着をはぐくもう。」 このことをねらいとして始めました。

今回は宇和島南中等教育学校の1年生を対象に2日間にわたって行いました。1日目(7月17日)には、博物館見学により本物の展示物を鑑賞して「生の学習」を、2日目(7月18日)には、学芸員が学校に赴き、体育館で「出前授業」をしました。

テーマは「幕末の宇和島」です。




伊達博物館の学芸員から、博物館の概要、展示中の宝物について説明しました。



大勢の生徒諸君からの質問に対して学芸員も熱が入りました。




宇和島南中等教育学校の校長先生のお話によると,今年は南予一円の80の小学校から160人が入学してきたそうです。小学校6年生で学習した社会科の歴史について興味を持っている生徒も多く、真剣に授業に取り組んでいました。「宇和島学」という総合学習の取り組みの一環として行いました。



ペリーが浦賀に来航した時の図面を熱心に見ている様子です。



ペリーの似顔絵もあります。 


当時の宇和島藩8代藩主伊達宗城の命令により、前原巧山の手で外輪船が作られ、宇和島湾を走りました。外輪船のミニチュア模型(大村仁志氏制作)も生徒の興味を引いていました。


大勢の生徒からの質問が、学芸員の意欲をかき立てます。






 「出迎え授業」も随時受け付中です。伊達博物館に気軽に連絡してください。


小学生も博物館に来ています。今年は津島町の下灘、畑地小学校、岩松小学校ほか多くの小学校の児童が遠足や校外学習で博物館を訪れています。これからもっともっと大勢の小・中学生に博物館に来て欲しいです。

2013年7月13日土曜日

平成25年度後期展『長寿、宗紀 -長寿大名100年を謳歌-』    ご案内(その2)



  第2展示室テーマ 「宗紀(むねただ)の春(はる)」

 文化13(1816)年2月23日、宗紀が27歳(数え年)の年、佐賀鍋島家治茂(はるしげ)の娘観姫(みよひめ)との婚礼祝儀が執り行われました。長男ながら庶子として生まれた宗紀は、家督を継ぐまでに複雑な境遇にあったものの、文化7(1810)年に幕府の承認を受けた後、35万7千石の雄藩である鍋島家から正室を迎え、晴れて婚礼の日を迎えることとなります。
 本展示室では、伊達家に伝来する鍋島家の家紋・杏葉紋(ぎょうようもん)の付された調度品や佐賀ゆかりの品など大名家ならではの婚礼調度品を中心に紹介します。

※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。

宗紀の甲冑(むねただのかっちゅう)
藍白地黄返小桜染革威鎧
(あいしろじきがえしこざくらそめかわおどしよろい) 
 
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 春日大社に奉納されている御神宝とされる鎧(鎌倉時代作「赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)現在は国宝である。)を模本として、天保10年(1839)徳川将軍家お抱え甲冑師岩井の手によって作られたものである。このため別名春日野鎧(かすがのよろい)とも呼ばれている。




                    和歌の浦蒔絵料紙箱・硯箱
                (わかのうらまきえりょうしばこ・すずりばこ)
                                                      公益財団法人伊達文化保存会蔵

                    (部分を拡大したもの)


葦(あし)が生い茂る海辺の情景と、空に群れをなして飛翔(ひしょう)する鶴が描かれる。『万葉集』山辺赤人(やまべのあかひと)の和歌を表現したものか。
     「和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」



竹に雀紋付松竹梅鶴文様衣装
(たけにすずめもんつきしょうちくばいつるもんよういしょう) 
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 (部分を拡大したもの) 

 吉祥文様の松竹梅や鶴が華やかに彩られる。宇和島藩6代藩主村壽(むらなが)婦人順(むね)姫ゆかりの品と考えられる。順姫は仙台藩7代藩主重村の娘。
            

                   黒塗杏葉紋散笹牡丹蒔絵茶箪笥
         (くろぬりぎょうようもんちらしささぼたんまきえちゃだんす) 
                                  

                    公益財団法人伊達文化保存会蔵

 黒塗地に左手前の土坡(どは)から竹が伸び牡丹の花が寄り添うように蒔絵され描かれる。竹の傍らには筍(たけのこ)が生える姿も描かれる。


                黒塗杏葉紋散松竹橘紋蒔絵長髢箱
     (くろぬりぎょうようもんちらししょうちくたちばなもんまきえながかもじばこ)
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 髢(かもじ)は髪を結うときに用いる付け髪。本資料内側の懸子(かけこ)には透文様(すかしもんよう)が施され、下に香炉を入れ髢に香を焚(た)き染(し)める構造となっている)。


懸子(かけこ)の透文様(すかしもんよう)・・・源氏香(げんじこう)の図 


公益財団法人伊達文化保存会蔵

※ 源氏香(げんじこう)
                                             
 5種類の香木を5包ずつ計25包用意し混ぜ合わせ、そこから任意の5包を取り出して炷き、同香か異香かを聞き分ける遊び。     
 源氏香の図は縦5本の線を基本として構成される。各線の示す香りは、右から第1香、第2香、…、第5香の順と決まっている。源氏香において、5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものの頭を横線でつなぐことで源氏香の図が表現される。たとえば、2番目の香と5番目の香が同じで、他は全て異なる香であると思ったら、藤袴になる。全部で52通りのつなぎ方があり、源氏物語全54帖のうち、桐壺と夢の浮橋の2帖を除く52帖の巻名が一つ一つの図に附されている。
 源氏香の図は、その芸術性の高さからか、着物やその帯、重箱などの模様、家紋としてもよく使われている。また、和菓子においてもこれを模しているものが存在する。
                               (ウイキペデイアより)


それぞれの調度品の杏葉紋(ぎょうようもん) (部分を拡大したもの)

    杏葉紋は、一説に馬具の杏葉(ぎょうよう)を象(かたど)ったものとされ、その形の優雅さから鎌倉時代初期から家紋として用いられたとされる。武家では、室町時代からよく用いられるようになり、江戸時代の大名では鍋島氏、立花氏に使用例がある。
 宇和島藩伊達家に伝わる杏葉紋調度は、佐賀藩鍋島(なべしま)家が伊達家への婚礼のために準備した品と考えられる。
      伊達家と鍋島家との縁は深く、江戸時代に3組の縁談が結ばれた。それぞれ、5代村候(むらとき)と護(もり)姫、7代宗紀(むねただ)と観(みよ)姫、8代宗城(むねなり)と猶(なお)姫である。現存する調度群や佐賀ゆかりの磁器類などから両家の親交の深さが偲ばれる。


源氏春松桜之図屏風
(げんじはるまつさくらのずびょうぶ) 
                                         
公益財団法人伊達文化保存会蔵

                    (部分を拡大したもの)

 山水に松、桜が咲きほころび春霞(はるがすみ)のような金雲が間を縫うように配される。春の長閑(のどか)な情景の中、人々が野遊びに興じる様子が描かれる。
 左隻中央部に源氏と思われる白地の狩衣を着た公達(きんだち)が優雅にたたずむ。



         宗紀、藩主となるまでの経緯


    宗紀は伊達家の財政難を回復させるなど多くの功績を残している。また、民に慕われ将軍家からの信任も厚かったが、藩主となるまでには出生の理由によりさまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)があった。
    寛政4(1792)年、6代藩主村壽(むらなが)の長男として誕生した宗紀。長男とはいえ庶子であったため、9歳で村壽正室順(むね)姫の養子となり長男となるも、正室に男子が誕生した場合は次男格扱いとなるという条件付嫡子であった。これは、順姫が仙台伊達家7代藩主重村(しげむら)の娘であったことから、仙台藩に配慮したためと考えられている。この翌年、正室に男子・村明(むらあきら)が産まれ、宗紀は次男となる。しかしその9年後に村明が死去する。
    このような経緯の後、文化7(1810)年に幕府の承認を受け、宗紀は正式に御曹司(おんぞうし)嫡子となるのである。   
                                                         ※宗紀の年齢は官年(公式記録)を採用
                                             

2013年7月5日金曜日

平成25年度後期展  『長寿、宗紀 -長寿大名100年を謳歌- 』 ご案内 (その1)

 現在、伊達博物館では 『長寿、宗紀-長寿大名100年を謳歌-』 と題して、平成25年度後期展を開催しています。

 長寿大名として知られる宇和島伊達家7代藩主宗紀(むねただ)侯に関する貴重な品々を展示します。特に伊達家に伝来する宗紀所用の品や、その人柄が偲ばれる品、また正室観姫(みよひめ)の実家である佐賀鍋島家にちなむ華やかな品など、1世紀を生き抜いた長寿大名ゆかりの品を一挙に公開しています。展示されている貴重な品々の中からその一部をご紹介していきたいと思います。今回は第1展示室です。   
                                                                                     

 第1展示室テーマ 「宗紀(むねただ)と筆(ふで)」 


 能筆家として知られる宗紀。存命中から揮毫(きごう=毛筆で言葉や文字を書くこと。毫(ふで)を揮(ふる)う。)を求める声も多く、宗紀書と伝わる作品が現在まで数多く遺されています。また江戸時代は多くの大名が筆をたしなむことに加え、その道具収集にも余念がありませんでした。本展示室では、伊達家に伝わる文房具類を中心に、宗紀愛用の品とその精神世界を彷彿とさせる品を公開します。

※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。


蘭亭硯(らんていすずり) 


 公益財団法人伊達文化保存会蔵

硯石の中で最もよい石とされる端渓硯(たんけいけん)使用の硯石。各面には中国晋代(永和9(353)年3月3日)蘭亭で王羲之ら文雅の友が集い、禊ぎごとをなし、曲水に盃を流しつつ詩を詠んだという故事が描かれる。



               堆黒菊文硯箱堆黒菊文硯箱(ついこくきくもんすずりばこ)

     
 公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

 総体を大輪の菊花が大胆に咲き誇る。堆黒は木胎に黒漆(くろうるし)と朱漆(しゅうるし)の層を
何層にも塗り重ね表面を黒漆塗りし、文様を彫刻する。中国では剔犀(てきさい)と呼ばれる。



 獏筆架(ばくふでかけ)


 公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

獏(ばく)は中国の想像上の動物。体形は熊、鼻は象、目は犀(さい)、足は虎、尾は牛に似ており、人の悪夢を食べ、またその皮を敷いて寝ると邪気を払うと言われる。



    銅製龍文筆洗(どうせいりゅうもんひっせん)   

                       
                   公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

桃の実を半分にしたような形の水受(みずうけ)は、内面に漆(うるし)が塗られ、水をはじくよう工夫される。持ち手部分は龍を象っており、側面には雲龍があしらわれる。



         扁額  宗紀書『五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)』   


       公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

大正6年に穂積陳重(ほづみのぶしげ)(日本初の法学博士の一人。宇和島藩士で国学者・穂積重樹の次男。)が記した裏面の貼紙によれば、大澤正道が所蔵していた宗紀の親筆を「一個人の私愛すべきものにあらず」とし、宇和島に寄附された経緯が記される。




宗紀書 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』


             公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

慶応3(1867)年3月、宗紀78歳の書。宗紀の隠居所・濱御殿(はまごてん)に造園された天赦園(てんしゃえん)(現在は国名勝)は、この書が書かれる前年に完成している。



          花鳥図 呂紀(りょき)筆 「白鷺」 (花鳥図の一部です。)

 
              
               公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵


白鷺(しらさぎ)・・・美しい白い羽や優雅な姿が好まれ、蓮(はす)と同じように泥中でも泥に染まらない高潔な人格の喩えとして多用された。蓮池に鷺の図は、立身出世の例えとされるようになった。
※ 「一(いち)路(ろ)連(れん)科(か)」(蓮=連、鷺=路と発音が通じる  ことから続けて科挙<試験>に合格すること。)


    
        花鳥図 呂紀(りょき)筆 「海棠」  (花鳥図の一部です。)


公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵


右幅は牡丹・海棠(かいどう)・金鶏・小鳥で春、左幅は蓮(はす)・百合・白鷺(しらさぎ)・小鳥で夏が描写される。
筆者の呂紀は、中国・明の宮廷画院画家。鮮麗な彩色と細緻な描写を特色とする装飾的花鳥画を得意とした。

海棠(かいどう)・・・中国原産の落葉樹。江戸時代初期頃に日本に渡来。イヨシノが咲き終わる頃、紅色の可憐な花を枝いっぱいに咲かせる。中国では古く牡丹と並び称されて人気の高い華で美人を表す言葉でもあった。


                染付磁器 朱肉池(4組) (そめつけじき しゅにくち)


公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

貼紙より春夏秋冬を表しているとされ、4合で1具として納められる。  
 

               
  
                    

                  花文花瓶(はなもんかびん)

                         
                      公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵

ターコイズ地の胴は波に蓮(はす)と赤魚が描かれ、東洋オリエントの雰囲気をもつ。首部は唐草花文が配され、地色は金地の線を境に上から青、赤、黒で構成される。




    伊達宗紀(だて・むねただ)について     (1792~1889)

    宇和島藩7代藩主。正室は佐賀鍋島家8代藩主治茂(はるしげ)の娘観(みよ)。弘化元年(1844)に隠居、春山(しゅんざん)と号す。百歳の天寿を全うした長寿大名としても知られる。
    寛政4(1792)年6代藩主村壽(むらなが)の長男として宇和島で生まれる。文政7(1824)年、家督を継ぎ藩主となる。藩主在任中よりその才覚を発揮し、天明の飢饉(ききん)以来の藩財政の回復と蓄積をはかる。質素倹約を推奨し、またハゼ蝋(ろう)の専売、塩やスルメなど特産品の保護、農業の技術改良に藩士を取り組ませるなど領内の検地や殖産事業の拡張等の藩政改革に努めた。
 その才能は政治的分野に限らず、歴代藩主の中でも能書家として知られ、領内の寺社等にも書が多く伝来し、百歳祝賀の際には多くの著名人からその書が所望された。明治22年11月死去。
                                              ※年齢は官年(公式記録)を採用