2013年10月24日木曜日

搬出作業を終え、九州へ。

特別展「結の華 ー佐賀鍋島家と宇和島伊達家の幕末・明治ー」が終了し、公益財団法人鍋島報效会樣ほかからお借りした大切な品物をお返しするための搬出作業を行いました。早朝6時から作業を開始し、1時間あまりの作業の後、午前7時半に九州に向けて出発しました。台風の接近が心配されましたが、無事に搬出・返却作業が終了しました。

作業開始した午前6時の城山です。


美術品を専門に輸送する美専車で運びます。

エアサスペンション搭載、庫内は完全装備です。

 


  
 






 
 


美術品の搬送には専門のトラックが使われます。美術品専門搬送車、略して「美専車」と言います。大切な美術品をウレタンや毛布でくるみ、固定して運送します。庫内は空調が完備されエアサスペンション(空気ばね)を利用して、美術品を守り、学芸員も同乗する特別席もある特別な車両です。作業に関わるスタッフは、収蔵庫からの作品の出し入れや開梱・梱包等も行う専門家集団です。展覧会の縁の下の力持ちです。


搬出品を慎重にチェックして、作業を続けます。



梱包した品を慎重に運びます。

















モルチール砲など重量のある品物が大変でした。
 


最終点検中です。

















 

しまなみ海道を経由して、九州に向けて出発。









搬出作業を終えた頃、すっかり明るくなった城山。

2013年10月20日日曜日

「伊達五十七騎戦国武者行列」が行われました。

 
宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が元和元年(1615)年に、57人の家臣を引き連れて、宇和島に入部した様子を再現する「伊達五十七騎戦国武者行列」が行われました。県内外から公募で選ばれた甲冑姿の武者行列は迫力満点でした。 (ブログアップが遅くなり、失礼しました。)
 
 
 
 
道の駅「きさいや広場」を出発して、大勢の人で賑わう「きさいやロード」を、南予文化会館前まで練り歩きました。2体の牛鬼も登場して、イベントを盛り上げていました。
 





 
 



 
この57人の家臣は秀宗の父政宗が、自分の家臣のなかから選んで秀宗付きの家臣としたもので伊達五十七騎といわれます。当日はそれぞれの武者が名前を記したのぼり旗をさしていて、よくわかりました。


 
 
さわやかな秋空のもと、「うしおに広場」では、餅まきもあり、大勢の人出で賑わっていました。 
 
 

甲冑は宇和島の姉妹都市である宮城県大崎市からお借りしたものだそうです。この行事に合わせて来宇された大崎市からのお客さんが伊達博物館を訪ねていただきました。7月の宇和島うしおに祭り以来です
 
 

 
 南予文化会館前で全員の写真撮影。石橋寛久市長、宇和島伊達家13代当主伊達宗信様もおられます。この後、五十七騎の有志の方はこの姿のまま、宇和島城まで登られたそうです。お疲れ様でした。再来年は、秀宗入部400年になります。市民総ぐるみで、宇和島市を盛り上げていきたいものです。

2013年10月19日土曜日

「長寿、宗紀展 長寿大名100年を謳歌」 後期展を再開しました。

好評のうちに平成25年度特別展「結の華 佐賀鍋島家と宇和島伊達家の幕末・明治」が終了しました。会期中は大勢の皆様が博物館を訪れていただき、誠にありがとうございました。引き続いて後期展「長寿、宗紀展 長寿大名100年を謳歌」を再開します
   

長寿大名として名の知られる宇和島伊達家7代藩主宗紀(むねただ)。100年(公式記録)という長い年月を生きる中、政治家として敏腕をふるう一方、趣味の世界でも遺憾なく才能を発揮しました。本展示会では、伊達家に伝来する宗紀所用の品やその人柄が偲ばれる品、また正室 観(みよ)姫の実家である佐賀鍋島家にちなむ華やかな品など、1世紀を生き抜いた長寿大名ゆかりの品を一挙に公開します。多数の皆様の来館をお待ちしております。

展示期間: 平成25年10月19日(土)~12月25日(水)
休 館 日 : 月曜日 ※月曜日が祝祭日の場合は月曜開館、火曜日休館           
  
 


 
【写真】7代藩主 宗紀肖像(公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵)
          扁額「楽春」(宗紀)筆 (公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵)

 
(展示内容について)
 
第1展示室(宗紀と筆) 
  能筆家として知られる宗紀直筆の書や愛用の文房具類に加え、その精神世界を彷彿とさせる品を紹介します。
 
第2展示室(宗紀の春)
  正室観(みよ)姫の実家である佐賀鍋島家にちなむ華やかな品を紹介します。伊達家に伝来する鍋島家の家紋・杏葉紋(ぎょうようもん)の付された調度品や佐賀ゆかりの品など大名家ならではの婚礼調度品を中心とした展示です。
 
第3展示室(福寿、宗紀)
  宗紀の長寿祝いの品などを紹介します。明治22年に開かれた百歳祝いの様子、隠居後余生を過ごした天赦園の様子や宗紀自作による作品も併せて公開します。
 
  また、第3展示室内において、修復作業を終えた「東海道五十三次蒔絵組盃」を特別公開します。現代の蒔絵職人による洗練された技巧の成果をご覧いただけます。
 
 
 
 特別展の会期中、市内の小・中学生の皆さんも伊達博物館を訪れました。学芸員の説明に熱心にメモを取る姿も見られ、頼もしく感じました。 
10月3日、三浦小学校の5、6年生の皆さん
10月10日、城南中学校1年生の皆さん






熱心に学芸員の説明を聞いていました。

 

 特別展に合わせてお借りした佐賀鍋島家の貴重な品々を梱包、整理しました。併せて後期展の展示替えを行いました。数多くの品のなかで最も大変な作業はモルチール臼砲、ボンペン野戦砲です。重さは600kgあり、学芸員だけでなく専門の業者の方が取り組んでいただきました。
 
重さが600kgのモルチール臼砲。5人がかりです。

細心の注意を払って作業中です。



梱包作業を終え、あとは佐賀まで運搬です。

   


 
 
 
 

2013年10月8日火曜日

特別展「結の華 -佐賀鍋島家と宇和島伊達家の幕末・明治- 」  (その3)

 【第3展示室】  「幕末の華」 



特別展の紹介シリーズ最終回です。前回に引き続いて主な展示内容をご紹介します。ぜひこの機会に、伊達博物館を訪れていただき、本物をご覧ください。


※ 写真の著作権は公益財団法人鍋島報效会・佐賀県立博物館・佐賀県立美術館・佐賀県立佐賀城本丸歴史館・佐賀県立図書館・武雄市・公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。

   鍋島報效会所蔵品については、徴古館HPより転載

   伊達文化保存会所蔵品については、『宇和島伊達家伝来品図録』より転載


 佐賀では藩御用の鍋島藩窯(はんよう)・鍋島更紗(さらさ)・鍋島緞通(だんつう)などの優れた工芸品を産出し鍋島ブランドを確立し今に伝えている。慶応3(1867)年に行われたパリ万国博覧会では、佐賀・薩摩両藩が中心となり日本を代表して参加した。その折に出品されたのが、鍋島藩御用の鍋島藩窯、鍋島更紗、鍋島段通などの優れた工芸品である。
 特色ある文化が華ひらいた一方、幕末期の日本は欧州列強が押し寄せる国際情勢の不安定な時期でもあった。長崎警備を担っていた佐賀藩は、諸藩に比べ外国文化に触れる機会に多かったことから積極的に西洋文化を取り入れ、武器の購入や大砲鋳造、蒸気船の建造など開明的な政策により軍備を強化していった。




       モルチール砲(臼砲)(もるちーるほう)(きゅうほう)

                
                                  【武雄市重要文化財・武雄市蔵】

 
         
                            
                                    


(文化遺産オンラインHPより)                                                                                                             
 
                                                                                                  
武雄における大砲の歴史は、天保3年(1832)武雄領主鍋島茂義が家臣平山醇左衛門を長崎の西洋砲術家高島秋帆に入門させたことに始まる。2年後には茂義自身も入門し、武雄領では全国に先駆けて大砲製造に努力し、試射を行った。この成果は、茂義の実弟で佐賀藩士坂部三十郎によって佐賀本藩に伝えられ、天保11年(1840)に神埼の岩田で大砲の試射に成功した。以来、西洋砲術は「佐賀藩の大砲」として全国に知られるようになった。このモルチール砲は、通称20ドイムモルチールと呼ばれるもので、把っ手のある上面には銀製の武雄鍋島家の家紋がはめ込まれ、蘭文の銘がある。下面には漢文の銘があり、高島秋帆が天保6年(1835)に日本で最初に製造した洋式大砲であることがわかる。この砲が武雄にあることの意義は大変大きく、当時の人々の近代科学への進取の姿勢が読み取れる。
                                            上面の銘:IN HET JAAR 1835 / (HOLLANDSCH) / EERST GEGOTEN TE JAPAN
                                                          
 
                                           下面の銘:「皇国莫兒氏兒開基 / 高島四郎兵衛源茂紀 / 高島四郎太夫源茂敦 / 日本砲術家従来未知放之 / 造之 天保六年乙未 / 七月令鋳法門人嶋安宗八 /  鋳之」
 

                                         (図録『「大鑑・巨砲ヲ造ル」江戸時代の科学技術』より)
                                                                    
                                
高島秋帆がつくった日本初の様式砲。モルチール砲(臼砲)は、砲身が短く少量の火薬で発射できるのが特徴で、弾道は大きな放物線を描くため城壁内の目標物を攻撃するのに向く。砲身の下部に高島茂紀・高島茂敦(秋帆)父子が門人嶋安宗八に鋳造させたと記す刻銘がある。昭和11年武雄鍋島邸の庭から発見された。 
                                       
ボンベン野戦砲(施条カノン砲)
ぼんべんやせんほう)(しじょうかのんほう)
  
 
   【武雄市重要文化財・武雄市蔵】





(文化遺産オンラインHPより)                              
                                    
                                          
                              
この砲は、腔線5条、火口に「三番」の刻銘がある。滑空砲から施条砲に変わる過渡期のものとみられている。




    染付藩窯絵図大皿(そめつけなべしまはんようえずおおさら)


   【佐賀県重要文化財   佐賀県立博物館・美術館蔵】


      

   
                           
       (図録『佐賀鍋島藩の美術』より)                                                                    


大川内山(伊万里市)の藩窯の景観で、青螺山のふもとの工房や関所などが配されている。山や家屋の描法からは、10代藩主直正の近習で書画を得意とした古川松根(1813~71)の特徴が観察される。松根は藩窯の図案も手がけたとされ、藩の管理下で運営された藩窯の景観を描くことができた人物として、ふさわしい。家屋にみられる形式化した描写から、松根の図案をもとに絵付けされたものとみるべきかもしれない。


  
                                                     
   鍋島更紗 見本帖  (なべしまさらさみほんちょう)


 
                                           

  (図録『佐賀鍋島藩の美術』より)
                                                                              
32種類の模様の更紗が貼り合わせられ、それぞれの境界をつなぐ色紙に「壱番」から「三拾弐番」までの番号が墨書されている(改装時に17番下に別文様が発見され、全33種となる)。見返しの左端下の「さらさ屋/兵右衛門」とは鍋島更紗を製作した江頭兵右衛門のことで、天保10年(1839)2月11日起筆の「更紗日記」に名前が記されている。また同日記の弘化4年(1847)1月26日に「御用ニ付手本持参罷出侯処第三拾番御用ニ而」とあり、藩の御用は、番号の付された「手本」を持参して製作の指示を受けていたことが知られる。したがってこの見本帖は、江頭家で藩からの御用をつとめるため使用された「手本」そのものであった可能性が指摘できる。



                                               
鍋島直正像(なべしまなおまさぞう)【公益財団法人鍋島報效会蔵】

                    
                                
                                                                                                                                        

百武兼行が描いたと思われる10代鍋島直正の肖像画。正装した衣冠束帯の表現が平板なことなどから、実写ではなく写真をもとにして描いたものと考えられる。百武は9歳の時、のちに11代藩主となる直大のお相手役に選ばれ、直大の父・直正の側近だった古川松根(1813~72)に師事して和漢の学と書画を学んでおり、百武は本品のほかに古川松根像も残している。ただ百武が洋画家としての実力を本格的に身に付け始めるのは明治7(1874)に再渡欧した際、直大夫人・胤子のお相手としてロンドンでリチャードソンに師事してからであり、その後のパリ修行を経てローマ滞在中の明治14年に描いた鍋島直大像は彼の肖像画の到達点を示している。



                                                    
鍋島直正和蘭船乗込図(なべしまなおまさおらんだせんのりこみず)
           
         

           【公益財団法人鍋島報效会蔵】


       

                                                 
天保15(1844)年7月2日、オランダ国王の開国勧告を携えた使節船パレンバン号(軍艦)が長崎に入港した。長崎警備の重要性を認識していた10代鍋島直正は「後のため、かの船中を委(くは)しく見置給ん」と長崎奉行に掛け合い、9月19日にパレンバン号に乗込み視察を行った。その様子を直正の側近であり視察の御供をした古川松根が18図に亘って記録した絵巻物。本図は二段目にある将官の座敷に入り、将官コープスとカピタンからテーブル一杯に銘酒や菓子等の饗応を受けている様子を描いており、中央の赤い袴の人物が鍋島直正である。直正一行は船内各所を見学の後、石火矢(大砲)の操作を見学し、砲術について種々質問を行い、満足のいく視察であったという。この視察が、直正による国防のための海軍創設の端緒となった。




                                   

島直茂像(なべしまなおしげぞう)【公益財団法人鍋島報效会蔵】  



             
                                          


 佐賀藩祖鍋島直茂(1538~1618)は鍋島清房の次男として天文7年(1538)本庄館に生まれる。母は龍造寺家純の女。龍造寺隆信の下で戦功をあげ、今山の合戦で大友氏を打ち破り、重臣の地位を固める。隆信の敗死以後、龍造寺一門や豊臣秀吉の信頼を受ける。龍造寺政家から高房へと移り、慶長12年(1607)両氏の死によって、名実共に鍋島佐賀藩が誕生する。直茂は隆信とは元々従兄弟であり、父清房へ隆信の母慶誾尼が再嫁したことにより、義兄弟でもあった。肖像画は菩提寺に甲冑姿があり、当会には束帯姿:横向き2点と正面向き1点があり、いずれも藩の御用絵師三浦子璨筆。右下に方印「三浦賢純/五州孫子/璨平淵印」あり。                          




    葉隠(はがくれ) 【公益財団法人鍋島報效会蔵】  

              (佐賀県立図書館寄託)

  
   
 
                                                                                                       

江戸時代を代表する武士道論。佐賀藩士・山本常朝(1659~1719)の談話を、田代陣基(1678~1748)が聞き書きして編集し全11巻として享保元年(1716)に完成した。内容は、教訓(1・2巻)、藩祖直茂・初代勝茂・2代光茂・3代綱茂などの言行(3~5巻)、佐賀藩士の言行(6~9巻)、他藩士の言行(10巻)、補遺(11巻)の各巻で構成されている。葉隠の原本は知られておらず多数の写本があるが、写真は山本本と呼ばれる写本で、佐賀藩「御什物方」印が押されている。



                                                

青漆塗萌黄威二枚胴具足(せいしつぬりもえぎおどしにまいどうぐそく) 

     【公益財団法人鍋島報效会蔵】

  
       
                       
                                             
佐賀藩歴代藩主所用の具足で現存する唯一のもの。胴裏面に金泥で記された「鎧記」から、初代鍋島勝茂が寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱で着用したもので、寛永19年(1642)に勝茂末男の直長に与えられた「武運之瑞器」であることが分かる。以後、直長の子の茂真に始まる鍋島内記家(親類)に伝来。              
  具足に付属する鍋島内記家6代茂生の書付(江戸時代後期)によると、当時から「堅牢にして軽便、質朴にして花色無」い具足、との評がなされ、天保14年(1843)にこの具足を見た10代鍋島直正は「わが家が所蔵する具足と匹敵する名器だ」と述べている。奇抜さはないが、萌黄色の威糸と青漆の色が調和し、機能を最優先したと思われるいかにも実戦的な甲冑である。簡素でありながらも藩主着用にふさわしい風格がある。



                                         

蒸気車雛形(じょうきしゃひながた)【公益財団法人鍋島報效会蔵】 

    
                     
                                   


佐賀藩精煉方が蒸気機関研究のため、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形。2気筒の蒸気シリンダーを有するが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うため、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと思われる。


                                   

蒸気船雛形(外輪船)(じょうきせんひながた)(がいりんせん)  

【公益財団法人鍋島報效会蔵】 


           
                      
                                   

永6年(1853)のペリー来航後、幕府は西洋軍事技術の導入を阻止する従来の政策を改め、洋式軍艦の建造を大名に勧めた。これは佐賀藩精煉方が蒸気機関研究のために製造したとされる蒸気船(外輪船)の雛形。ボイラーが単管式である蒸気車雛形よりも進化した多管式となっており、蒸気の発生効率が向上している。慶応元年(1865)に三重津で完成した木製外輪蒸気船「凌風丸」の原型といわれる。



                                   

大砲鋳造絵巻(たいほうちゅうぞうえまき)【佐賀県立佐賀城本丸歴史館】

  

        
                      
                                   

幕末、小田原における大砲鋳造の様子を描いた絵巻。青銅製の西洋式カノン砲と和式砲の製造について、材料の運び込みから鋳型の製作・据付け、こしき炉の組立て、砲身の鋳込みからし上げ加工まで、行程の各段階を説明付きで詳細に描写している。 


                                  

佐賀焼三つ組盃・盃台(さがやきみつぐみさかずき・さかずきだい )

         【公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵】

  


                                  

ここで「佐賀焼」と称されているものは、伊万里・有田焼をさすものと考えられる。江戸時代には伊万里の柿右衛門・今右衛門の色絵盃などの良品が作られている。宇和島藩の第5代村候・7代宗紀・8代宗城の夫人は佐賀藩鍋島家から輿入れされている。それに伴い、佐賀からの焼き物が多く使用されていたと考えられる。