2013年1月25日金曜日

宇和島伊達騒動

 史実と想像

 これから記述する話は根拠は唯一つ、伊達家に残る一通の手紙・・・あとは宇和島に残る言い伝えや口伝による。忠臣山家清兵衛公は秀宗による上意討ちだったのみが真実・・・闇討ち事件とか、惨殺とか、祟りとかは清兵衛の善政を忍んで物語的に言い伝えられたことである事を記述しておく。

 最近、この山家清兵衛について話をする機会が増えた。研究をされている方々、いろんな視点を持っている方々の話をまとめて話すことにしているが、口伝にしても疑問に感じることが多々ある。
 見聞きし、解決しているものもあるが、疑問として残っているものが多い。その中でも特に気になるのが、秀宗の上意討ちであったという結論。仙台伊達家四代綱村の宇和島藩伊達家二代宗利に宛てた書状に「山家清兵衛と申す者を御成敗」とあることで分かるとされてきた。

 御成敗であるなら何故、切腹とか閉門蟄居とか、正式な処罰を与えなかったのか?闇討ちなどと言うのは大名の当主がすべきことではないと思う。私は研究者ではないので古文書による正式な見解はできない。しかしながら半面、自由な推理はできる。これから述べる話はなんの根拠もない戯言としてとられてもらっても良い。おもしろく読んで頂ければ幸いである。

 結論から言うと、山家闇討ち事件は口伝で伝えられているように家臣団の対立によるものだと思う。家臣達は禄高を減らされ不平不満が山家清兵衛に向けられた。また、民百姓達の税を少なくし、人気があり、信頼されている山家清兵衛に対する恨みとやっかみが、その因になったことは推測できる。それが闇討ちとなった。命令したのは誰か定かではない。さて、このことが江戸表に知られたら、お家騒動(内乱)で間違いなくお取りつぶしであろう。家老の桜田、志賀、桑折あたりが、仙台の政宗に注進に及んだことは必定である。

 政宗、これには激怒もしたと思う。しかしこのままでは宇和島藩10万石を徳川からせしめたことが水泡に帰する。智恵を絞り、政宗が筋書きを書いた。つまり、清兵衛を秀宗が上意討ちにしたと書き換えた。そのため記録類は一切焼去せよとの命令、そして秀宗とはともに大芝居を打つ。これが親子勘当事件。そして政宗は江戸幕府に先手を打ち、宇和島藩お取りつぶしをと願い出る。これは前代未聞のことである。申し出通りにできないのは東北の雄「政宗」が相手だということ。幕府も落としどころを考えたに違いない。ここで登場するのが譜代筆頭井伊家である。ご存じの通り井伊家は秀宗の妻の里。仙台への秀宗に対しての措置の取りなし、それから幕府へ対して温情の沙汰があるようにという願い出た。

 仙台でもこの事件については箝口令が布かれたことは推測できる。知っているのは、おそらく政宗他、数名のお付きの者だろう。書面で残さず、口頭で処理したのではないか。綱村の書面は、この口伝を伝えたことではないかと推測する次第である。

このことから次の疑問が解消される。

◆ 上意討ちではなく闇討ちであったこと。
◆ 口伝ながら、清兵衛は前もって毒殺、暗殺の兆しを察知していたこと。
◆ 妻、母、二人の娘を伊方屋仁兵衛の檜皮ヶ寮(ひわだがりょう)へ避難させていたこと。
◆ 闇討ちの後も一家皆殺しにするよう追っ手を送ったこと。
◆ 政宗が息子の藩のお取りつぶし依頼をすること。
◆ 証拠書類など一切の焼脚命令。
◆ 速やかなる山家清兵衛の神格化。