2013年7月13日土曜日

平成25年度後期展『長寿、宗紀 -長寿大名100年を謳歌-』    ご案内(その2)



  第2展示室テーマ 「宗紀(むねただ)の春(はる)」

 文化13(1816)年2月23日、宗紀が27歳(数え年)の年、佐賀鍋島家治茂(はるしげ)の娘観姫(みよひめ)との婚礼祝儀が執り行われました。長男ながら庶子として生まれた宗紀は、家督を継ぐまでに複雑な境遇にあったものの、文化7(1810)年に幕府の承認を受けた後、35万7千石の雄藩である鍋島家から正室を迎え、晴れて婚礼の日を迎えることとなります。
 本展示室では、伊達家に伝来する鍋島家の家紋・杏葉紋(ぎょうようもん)の付された調度品や佐賀ゆかりの品など大名家ならではの婚礼調度品を中心に紹介します。

※ 写真の著作権は公益財団法人宇和島伊達文化保存会にあり、無断転載を禁じます。

宗紀の甲冑(むねただのかっちゅう)
藍白地黄返小桜染革威鎧
(あいしろじきがえしこざくらそめかわおどしよろい) 
 
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 春日大社に奉納されている御神宝とされる鎧(鎌倉時代作「赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)現在は国宝である。)を模本として、天保10年(1839)徳川将軍家お抱え甲冑師岩井の手によって作られたものである。このため別名春日野鎧(かすがのよろい)とも呼ばれている。




                    和歌の浦蒔絵料紙箱・硯箱
                (わかのうらまきえりょうしばこ・すずりばこ)
                                                      公益財団法人伊達文化保存会蔵

                    (部分を拡大したもの)


葦(あし)が生い茂る海辺の情景と、空に群れをなして飛翔(ひしょう)する鶴が描かれる。『万葉集』山辺赤人(やまべのあかひと)の和歌を表現したものか。
     「和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」



竹に雀紋付松竹梅鶴文様衣装
(たけにすずめもんつきしょうちくばいつるもんよういしょう) 
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 (部分を拡大したもの) 

 吉祥文様の松竹梅や鶴が華やかに彩られる。宇和島藩6代藩主村壽(むらなが)婦人順(むね)姫ゆかりの品と考えられる。順姫は仙台藩7代藩主重村の娘。
            

                   黒塗杏葉紋散笹牡丹蒔絵茶箪笥
         (くろぬりぎょうようもんちらしささぼたんまきえちゃだんす) 
                                  

                    公益財団法人伊達文化保存会蔵

 黒塗地に左手前の土坡(どは)から竹が伸び牡丹の花が寄り添うように蒔絵され描かれる。竹の傍らには筍(たけのこ)が生える姿も描かれる。


                黒塗杏葉紋散松竹橘紋蒔絵長髢箱
     (くろぬりぎょうようもんちらししょうちくたちばなもんまきえながかもじばこ)
 公益財団法人伊達文化保存会蔵

 髢(かもじ)は髪を結うときに用いる付け髪。本資料内側の懸子(かけこ)には透文様(すかしもんよう)が施され、下に香炉を入れ髢に香を焚(た)き染(し)める構造となっている)。


懸子(かけこ)の透文様(すかしもんよう)・・・源氏香(げんじこう)の図 


公益財団法人伊達文化保存会蔵

※ 源氏香(げんじこう)
                                             
 5種類の香木を5包ずつ計25包用意し混ぜ合わせ、そこから任意の5包を取り出して炷き、同香か異香かを聞き分ける遊び。     
 源氏香の図は縦5本の線を基本として構成される。各線の示す香りは、右から第1香、第2香、…、第5香の順と決まっている。源氏香において、5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものの頭を横線でつなぐことで源氏香の図が表現される。たとえば、2番目の香と5番目の香が同じで、他は全て異なる香であると思ったら、藤袴になる。全部で52通りのつなぎ方があり、源氏物語全54帖のうち、桐壺と夢の浮橋の2帖を除く52帖の巻名が一つ一つの図に附されている。
 源氏香の図は、その芸術性の高さからか、着物やその帯、重箱などの模様、家紋としてもよく使われている。また、和菓子においてもこれを模しているものが存在する。
                               (ウイキペデイアより)


それぞれの調度品の杏葉紋(ぎょうようもん) (部分を拡大したもの)

    杏葉紋は、一説に馬具の杏葉(ぎょうよう)を象(かたど)ったものとされ、その形の優雅さから鎌倉時代初期から家紋として用いられたとされる。武家では、室町時代からよく用いられるようになり、江戸時代の大名では鍋島氏、立花氏に使用例がある。
 宇和島藩伊達家に伝わる杏葉紋調度は、佐賀藩鍋島(なべしま)家が伊達家への婚礼のために準備した品と考えられる。
      伊達家と鍋島家との縁は深く、江戸時代に3組の縁談が結ばれた。それぞれ、5代村候(むらとき)と護(もり)姫、7代宗紀(むねただ)と観(みよ)姫、8代宗城(むねなり)と猶(なお)姫である。現存する調度群や佐賀ゆかりの磁器類などから両家の親交の深さが偲ばれる。


源氏春松桜之図屏風
(げんじはるまつさくらのずびょうぶ) 
                                         
公益財団法人伊達文化保存会蔵

                    (部分を拡大したもの)

 山水に松、桜が咲きほころび春霞(はるがすみ)のような金雲が間を縫うように配される。春の長閑(のどか)な情景の中、人々が野遊びに興じる様子が描かれる。
 左隻中央部に源氏と思われる白地の狩衣を着た公達(きんだち)が優雅にたたずむ。



         宗紀、藩主となるまでの経緯


    宗紀は伊達家の財政難を回復させるなど多くの功績を残している。また、民に慕われ将軍家からの信任も厚かったが、藩主となるまでには出生の理由によりさまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)があった。
    寛政4(1792)年、6代藩主村壽(むらなが)の長男として誕生した宗紀。長男とはいえ庶子であったため、9歳で村壽正室順(むね)姫の養子となり長男となるも、正室に男子が誕生した場合は次男格扱いとなるという条件付嫡子であった。これは、順姫が仙台伊達家7代藩主重村(しげむら)の娘であったことから、仙台藩に配慮したためと考えられている。この翌年、正室に男子・村明(むらあきら)が産まれ、宗紀は次男となる。しかしその9年後に村明が死去する。
    このような経緯の後、文化7(1810)年に幕府の承認を受け、宗紀は正式に御曹司(おんぞうし)嫡子となるのである。   
                                                         ※宗紀の年齢は官年(公式記録)を採用
                                             

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