秀宗に宇和島10万石が与えられたのは、父政宗が政治的に動き、実現できたという裏付けの証明となる。側室の子、秀吉の猶子となっていたため、仙台藩の跡継ぎにはできにくい。そこで、この口利きの依頼状となったと思われる。この書状は徳川家康の腹心本多正純に送った「身上之義」で土佐藩士の子孫の方が保管されていた。高知県立歴史民俗資料館を通じて、伊達家に詳しい仙台市博物館が筆跡、政宗の花押などで確認した。(読売新聞を要約)
大坂冬の陣のため、家康が京都二条城にいた1614年11月10日付での書状。このあと政宗は家康と面会する。政宗と秀宗はこの後、冬の陣に参戦し、その功績で10万石の宇和島藩を与えられることになる。東北の雄、政宗に対する徳川家の思惑は、秀宗の婚儀に対しても徳川の重臣、井伊直政の娘「亀姫」を嫁がせたことでも分かる。
しかしながら政宗の心の不安は計り知れない。秀吉、家康の人質として甘やかされ、育った境遇を特に心配している。宇和島入府の折には、仙台藩の家臣の中でも選りすぐりの57人をつけて送り出している。世に言うところの「伊達57騎」である。
そして、現在展示中の教諭5項目を与えている。(要約のみ)
政宗から秀宗へ宛てられた教諭
覚
一、両御所(家康・秀忠公)様へ筋道を通すことは勿論ながら、そのことを決して忘れてはいけない
一 、仕えてくれるものを大事にしなさい。但し罪は許してはならない
一、いつも弓矢(武芸)を心がけるのはいうまでもない
一、学問のことは口頭で伝える。碁や将棋などのこと
一、家臣たちを思いやり、よく心内などを聞き分けなさい
右の5ヶ条の他に言っておきたい事があるけれども、手前(秀宗)は道理を弁えているので、あとは両人(志賀右衛門・山家清兵衛に口頭で伝えておく。
子を思う親の気持ちは、今も昔も変わらない。しかし、政宗が心配したことが「和霊騒動」につながっていくことは皮肉なことである。この話は、また別に掲載したい。
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