2014年2月28日金曜日

香木 銘 「柴舟」(しばふね)を展示しています。

「ひな人形とひな調度展」に併せて、宇和島伊達家伝来の美術品の中でも特に有名な「香木 銘『柴舟』(しばふね)と『唐物小茄子茶入』(からものこなすちゃいれ)を展示しています。この品は、伊達政宗から宇和島藩祖である息子秀宗に贈られたものです。この機会にぜひご覧下さい。


香木 銘 「柴舟」 (しばふね)

政宗より拝領   (公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵)

寛永年間(1624~1644)に日本に伝来したとされる香木。本資料は、父政宗から宇和島藩祖となった秀宗へ「唐物小茄子茶入」(からものこなすちゃいれ)とともに贈られた香木である。この香木は「一木三銘」とも「一木四銘」とも称され、同じ香木ながら分木して伊達政宗の所持した香木を「柴舟」(しばふね)、細川忠興(三斎、1563~1646)の所持は「白菊」(しらぎく)、小堀政一(遠州、1579~1647)所持は「初音」(はつね)の銘を持つ(また後水尾天皇1596~1680)の所持したものは「蘭」(ふじばかま)という)とされていることからもよく知られている(諸説がある)。

政宗は、幼い頃から秀宗へ文武両道にわたりこと細かく指導していた。秀宗にこの「柴舟」を贈るに際しての書状には、「秘蔵のしば舟の香一包」「今程可様の香は有間敷」と、政宗がその価値を特筆している。今日では寛永年間以後日本に入った香木の中で比類なき名香であると評されている。香木を守るために竹の皮で包まれ、錫製の小箱に入れた上で木箱に納め、厳重に保管されている。図版には伊達家伝来の香木より「一木四銘」を掲載している。
                              (「宇和島伊達家伝来品図録」解説より)



唐物小茄子茶入(からものこなすちゃいれ)

      政宗より拝領   (公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵)

父政宗から息子秀宗へ贈られた茶入れ。茶入れは茶の湯では特に大切にされた濃茶を入れる陶製の小壷。なかでも「唐物(からもの)」と称する高級舶来品が収集され、権勢を示す道具として大いにもてはやされた。



               

伊達政宗書状    

(年不詳)1月3日  小茄子茶入、柴舟のこと (公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵)

改年の挨拶に続き、政宗秘蔵の貴重な名香「柴舟」(しばふね)と「唐物小茄子茶入」(からものこなすちゃいれ)を譲る思いが綴られている。香木「柴舟」を政宗が入手したのは寛永3(1626)年の上洛中。政宗・秀宗共に在府中とみられることから、この書状は寛永5年以降のもの。




※香木(こうぼく)
心地よい芳香を持つ木材のこと。沈水香木(じんすいこうぼく、俗称を沈香〈じんこう〉)と白檀(びゃくだん)が有名である。沈水香木(沈香)は、特に香道に使用される香木であり、薄片に削ったものを加熱して芳香を楽しむのに用いられる。白檀は熱することなく香るため、香道以外にも仏像などの彫刻や扇子や数珠などの材料として用いられる。比重が重く水に沈む、これが沈水香木(沈香)という名の由来である。沈香のうち、特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれる。「日本書記」によれば、推古天皇3年(595)に淡路島に流れ着いたのが沈香の日本伝来と言われている。強壮、鎮静などの効能がある生薬でもある。

2014年2月15日土曜日

平成26年 「ひな人形とひな調度展」 開催中です。

  平成26年も恒例の『ひな人形とひな調度展』を開催いたします。今年は7代藩主夫人の観姫(みよひめ)が所有していたひな人形や館蔵品である『有職雛』(ゆうそくびな)の展示に加えて、宇和島伊達家に伝来する品々の中から、伊達政宗直筆の書状、初代藩主秀宗が父である政宗から拝領した「香木 銘『柴舟』(しばふね)」、「唐物小茄子茶入(からものこなすちゃいれ)」をはじめ、あでやかな美を誇る織物「蜀錦」(しょっきん)など、貴重な美術品を併せて展示しています。ぜひ大勢の皆様のご来館をお待ちしております。


◇ 期間: 2014年2月15日(土) ~ 4月6日(日)

◇ 期間中の休館日: 月曜日、但し祝日の場合は翌火曜日

◇ 開館時間: 午前9時 ~ 午後5時  (受付終了16:30)

◇ 入館料: 大人500円 大・高生400円 中学生以下無料 団体(20名以上)並びに敬老手帳

 及び身体障害者手帳をお持ちの方は 大人400円 大・高生200円

 
(有職雛:伊達博物館蔵)


雛祭り(ひなまつり)の語源とは?

「雛祭り」という言葉が使われるようになったのは江戸時代からと言われています。平安時代、貴族のあいだにあった「ひいな遊び(人形遊び)」と、身体につく災いを紙人形に移し、川や海へ流すという「巳日祓」(みのひはらえ)とが結びついて今日行われるような「雛祭り」の原型ができたそうです。



















有職びな(ゆうそくびな)とは?

有職雛(ゆうそくびな)とは公家のしきたりや装束を忠実に再現したひな人形のことを言います。17体の人形と約210点にも及ぶ調度品、本膳20人揃が一組になっています。このひな人形が横幅7.5mもあるひな壇に飾られる姿はとても見応えのあるものです。丹精こめられた人形達の姿をご覧ください。

このひな人形は、大正13年(1924)にひな人形細工師である大木平蔵(おおきへいぞう)によって作られたもので昭和49年(1974)に当館の開館を記念して宇和島市の名誉市民大宮庫吉(おおみや・くらきち)氏のご夫人によって博物館に寄贈されました。

今回は「有職びな」についてご紹介しました。次回も多くの展示品について紹介していく予定ですのでお楽しみに。

2014年2月11日火曜日

6年生の出迎え授業

 2月6日、市内鶴島小学校の児童の皆さんが博物館を訪れました。「総合的な学習の時間」に、「宇和島伊達家について調べよう。」というテーマで研究している15名の6年生を迎えて、出迎え授業を行いました。

展示室に入る前に、宇和島伊達家の成り立ち、9名の藩主について簡単な説明を受けた後、現在、展示中の「江戸の狩野派展」について、見学しました。見学を終えて、新たな興味・関心、疑問が生まれたようでした。


   ようこそ、鶴島小学校6年生の皆さん

                      香道具についての展示を鑑賞中。
                                 
社会科の学習で学んだことを確認します。
















             江戸の狩野派と伊達家の繋がりについても展示しています。


第4展示室「村候と信仰」
    
   5代藩主伊達村候(だて・むらとき)と、仏教の繋がりについて展示中です。


潮音寺に伝わる30体以上の仏像も展示中です。

                   気づいたことを懸命にまとめていました。

 子どもたちからの質問事項は
1 伊達家と豊臣家の関係について
2 伊達宗城は戦をしたことはあるのか?
3 伊達家はどれほどの兵力を持っていたのか?
4 伊達家の財宝について
5 伊達秀宗や伊達宗城の功績や魅力について
6 宇和島音頭「伊予の宇和島十万石」の意味は?  等でした。

来年2015年は、宇和島伊達家の藩祖「秀宗」がここ宇和島にきて400年にあたります。児童の皆さん、これからも自分の故郷宇和島について興味を持って学習を進めて欲しいと思います。
短い時間ではありましたが、伊達博物館に展示している貴重な歴史資料を目にしてふるさとについての学習が進んだことと思います。

来る2月15日(土)から4月6日(日)まで、「ひな人形とひな調度展」を開催します。例年、市内外の幼稚園や、保育園、小学校から大勢の子どもたちが来館してくれます。今年も首を長くしてお待ちしていますよ。

2014年2月1日土曜日

伊予の宇和島伊達舞台(市川猿之助宇和島歌舞伎)

 今回で3回目となる宇和島・小江戸フェステイバル「宇和島伊達舞台」(主催・四国の小江戸~宇和島文化発信プロジェクト実行委員会)が1月31日(金)、2月1日(土)の2日間にわたって開催されました。

平成23年度より始まった「四国の小江戸~宇和島文化発信プロジェクト」では、当時まだ市川亀次郎であった4代目市川猿之助さんを迎えての歌舞伎舞踊公演を核にしつつ、一方で宇和島圏域の文化資源の活性化と、掘り起こしを目論み、地域に根ざした活動を続けてきました。今回の舞台では、歌舞伎公演に加えて、郷土宇和島の諸団体による郷土芸能も披露されました。

主催・四国の小江戸~宇和島文化発信プロジェクト実行委員会
 (当日のプログラムから)

第1部
1.郷土芸能披露
    佐伯町の獅子舞(佐伯町獅子舞保存会の皆さん)
    宇和島さんさ(宇和島さんさを楽しむ会・藤間流ひな弥会・四国民舞輪の会の皆さん)
    八ツ鹿踊り(八ツ鹿保存会の皆さん)
    鹿の子(立間鹿の子保存会の皆さん)
2.市川猿之助トークショー
3.素踊り 「助六」 市川猿之助

第2部
4. 見どころガイド 木村宗慎
5. 歌舞伎舞踊 「女伊達」 市川猿之助
 

ここでは、2月1日(土)に行われた、商店街の「お練り」について紹介します。


商店街入り口で、市川猿之助さんの到着を待つ大勢の人々。


                      華やかな着物姿の女性が目立ちました。


 
おそろいの法被でお練りを盛り上げる実行委員の皆さん。


                                    花吹雪が舞う中、人力車で進みます。
















              「おもだかや~、にっぽんいち~」のかけ声もとんでいました。




                  南予文化会館前でお礼のご挨拶。この後は
                  宇和島城・城山でのイベントが控えています。

1月31日の夜の会を鑑賞しましたが、見応えのある公演でした。市川猿之助さんと囃子方の田中傳次郎さんのトークショーではユーモア溢れるお話が聞けました。猿之助さんのご指摘の通り、翌日のお練りでは「どこにこれだけ人がいたのかな?」と思うくらい、普段は人通りが少ない商店街が人々の熱気であふれかえっていました。ぜひ今回の公演をひとつのステップとして、来る2015年の「宇和島伊達400年祭」に繋げていきたいものです。

2014年1月25日土曜日

御浜御殿跡 発掘調査現地説明会  -馬屋と土塀からわかる藩主御殿-

 宇和島市立伊達博物館は、江戸時代の伊達家御殿跡の敷地に建てられています。このたび、当時の馬屋の跡が発掘され、宇和島市教育委員会文化課による現地説明会が行われました。その模様をお知らせします。前回、追手門跡の石垣根石が発掘されて以来の現地説明会で、4年ぶりだそうです。なお、以下の説明は当日の配布資料から引用させていただきました。


現地説明会について

とき:平成26年1月25日(土)10時から     ところ:伊達博物館駐車場に集合


◎調査の概要

宇和島市御殿町の個人住宅建設に先立つ発掘調査において、宇和島藩主の御殿「御浜御殿」に係わる建物跡(馬屋)を確認しました。藩主御殿内の施設が発掘調査によって明らかとなったのは初めての事例になります。また、この馬屋は従来の資料では確認されていない建物です。

 

 調査地:宇和島市御殿町701番地  土地面積:138.44㎡  調査面積:約90㎡


   朝早くから、大勢の参加者がありました。





              
                           

 御殿の馬屋について
宇和島城の御殿は三之丸御殿と御浜御殿の2カ所が存在しており、それぞれに隣接して馬屋が作られていたことが分かっています。承応3(1654)年絵図では御浜御殿の南側、現在の佐伯町に馬屋が位置していました。この馬屋は延宝2(1674)年に火事で焼失し、.屏風絵図や元禄16(1701)年絵図では佐伯町に馬屋は確認できません。

三之丸御殿に隣接する総郭の御馬屋は、長さ90間の馬屋と土塁に囲まれた馬場からなる長大なものでした。屏風絵図ほか、各年代の絵図に「馬屋」もしくは「馬場」と記されています。承応絵図には見られないことから、佐伯町の馬屋が焼失した後、作られたものと考えられます。今回確認した馬屋はこれら2カ所の馬屋以外に初めて確認されたものであり、御殿の区画内に作られた唯一の馬屋と言えそうです。馬屋の表面が御殿の正門に向いていることから、御殿の来客用などの用途が考えられます。


                学芸員による現地での発掘調査概要の説明
              
 
                           馬屋の遺構    柱の跡が見えます。
















御浜御殿(おはまごてん)について

『鶴鳴與韻』によると、神田川の元の流れは「勧進橋の手辺より北へ向かって流れ」とあり、御浜御殿周辺で海に流れ込んでいたものと考えられます。現在の流れは戸田勝隆の頃(1587~94年)に付け替えられ、その河口部分の埋め立て地は藤堂高虎の治世には侍屋敷となっていました。

愛媛県歴史文化博物館の井上淳学芸員の研究では、寛永4(1627)年作成の公儀隠密見取図にある「侍屋敷」、承応3(1654)年頃作成の宇和島城下絵図にみられる長方形の「御屋敷」は、藤堂高虎の家臣で宇和島城代であった佐伯惟定(権之助/豊後)の屋敷であり、伊達家入部の後、寛文10(1670)年~延宝5(1677)年までの拡張工事により、凸字型の御殿となったことが明らかとなりました(井上2010)。

2代藩主宗利による御殿造営ののちは藩主居館として使用され、文政8(1825)年には7代宗紀の隠居所が造営されました(天赦園)。

今回の調査地は御浜御殿の東端のほぼ中央部に位置しています。御殿東側は北側の豊後橋・搦手門・上り立ち門を通って城内に向かう御殿の正面に相当します。建物配置は東北角に長屋、北寄りに御門(正門)、南寄りに御庭御門、南東角に千鳥門が作られていました。





























出土遺物

瓦、土器、陶磁器等コンテナ7箱相当が出土しました。瓦では、伊達家の家紋が入った九曜文軒丸瓦や宇和島城内での主要な瓦当文様である三葉文軒平瓦が確認されました。陶磁器では、「藩」「御」の文字が入った幕末期の椀が出土しました。藩の施設を示す文字と思われ、特注品と考えられます。また墨で「権」の文字が書かれた陶器の椀等も出土しています。

学芸員の説明に熱心に耳を傾ける参加者の皆さん。

  出土した椀のかけら。文字が読みとれます。


「権」の墨字が残っています。

 

調査によって確認された遺構

馬屋跡 礎石14基を確認。柱の礎石配置は東西3間以上(6m以上)、南北2間半(5m)。
宇和島城保存整備検討委員会委員 三浦正幸教授の評価
                       (広島大学大学院文学研究科教授・工学博士)

○江戸時代のものとしては、非常に丁寧な礎石の据え付け。馬屋は高級建築のため礎石が丁寧な造りでも不自然ではない。

○側柱筋(がわばしら)に2間分の柱間があるので、18世紀半ば以降のもの。

○西側の1間の狭い幅の部屋は馬小屋。

○東の6畳間+4畳間は、馬の番人の部屋ではないか。

○6畳間の北側中央に柱がないことから、縁側になる可能性があり、北側が表と推定できる。
                          

土塀跡 南北方向に延び、幅約60cm(2尺)、長さ4mを確認しました。南側は抜き取られており、不明ですが、北側は調査区外に延びているものと思われます。なお、聞き取りによると、50年ほど前まで道を挟んだ南側に土塀が残っていたそうです。


絵図・文献との対応 

 現在御殿の建物配置が分かる絵図は、元禄期(17世紀末)の城下絵図屏風、延享4(1747)年浜之御屋敷御着城絵図、文政8(1825)年隠居所新築図があります。当該地付近は、屏風絵図では蔵、延享絵図では蔵と腰掛がみられ、18世紀中頃までは蔵があったことが分かりました。文政絵図では何らかの施設を示す表現は確認できますが詳細は分かりませんでした。その他の文献資料に御浜御殿の馬屋についての記録は現在のところ発見できていません。土塀については各時代の絵図に表現されており、おおむね絵図通りに出土しました。

2014年1月18日土曜日

平成26年お蔵開き


新しい年を迎えて、1月14日(火)に伊達家のお蔵開きが行われました。

新春の清浄な空気の中、一宮神社の宮司様による古式ゆかしい儀式が厳かに執り行われ、身も心も引き締まる思いでした。

             
                神官お二人により、儀式がしめやかに執り行われました。


張り詰めた空気の中、今年初めての蔵開きです。 


  厳かな中にも華やかさが感じられました。

 
                          新しい年の世界平和、我が国の弥栄を祈られます。


           














               宇和島伊達家13代当主伊達宗信様による玉串奉奠です。

                  
新たな気持ちで玉串をお供えします。 



 直会(なおらい)の儀。御神酒をいただきました。


儀式の終わりに、宮司様からお話がありました。

この宇和島の地が、昔からすぐれた治世により安寧を得てきたこと。新しい年にあたって、諸々の神、ご先祖からの加護がありますよう。そして我が国の繁栄、世界の平和を!!
高らかに言祝がれました。

平成26年が皆様にとりまして良い年でありますように!!

2014年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます。

 


 
平成26年1月4日(土)より開館いたします。

「江戸の狩野派」 -宇和島伊達家伝来品を中心に -


昨年同様、今年もよろしくお願いいたします。
 
 

2013年12月21日土曜日

平成26年前期展  江戸の狩野派展  開催のご案内

           平成26年前期展


 江戸の狩野派展 -宇和島伊達家伝来品を中心に-

        
   期間:平成26年1月4日(土)~6月15日(日) 

 




 宇和島伊達家には、日本絵画史上最大の画派であった狩野派の絵師たちの作品が多数伝来しています。今回の展示では江戸時代を中心に活躍した狩野派の絵師たちに関する資料をご紹介します。是非、この機会にご覧下さい。

 

◆第一展示  探幽と常信一絵画に見る両者の関係一

 狩野派の中で伊達家に多く伝来しているのが探幽と常信の絵画です。ここでは両者の関係がうかがえる絵画やゆかりの人物の資料をご紹介します。

 
◆第二展示  木挽町狩野家一伊達家との関係を中心に一

 狩野家はのちに木挽町に住まいがあったことから木挽町狩野といわれました。伊達家にも屏風を始めとした絵画や藩主が木挽町狩野の絵師に依頼して鑑定してもらった書画等が伝来しています。こちらでは伊達家と木挽町狩野の関係を中心とした資料をご紹介します。 
 

◆第三展示  世界文化遭産登録記念展  

富士山の魅力「藩主の和歌と記録、調度品から見た富士山一

 平成25年6月26日、日本車政府が推薦した富士山がユネスコの世界遺産委員会において世界文化遺産に登録されました。これを記念して、伊達家に伝来する富士山に関連する資料を小展示します。
 

 ◆第四展示 企画展「村候と信仰」

 5代藩主伊達村候は、宇和島藩歴代藩主の中でもとりわけ信仰に篤い人物でした。村候が遺した葬送関連や宗教関連の資料から、為政者である藩主とは違った一面をご紹介します。

 

  入館時間 午前9時~午後5時(受付終了16:30)

  開館日 月畔日※但し月曜日が祝祭日の日は翌火曜日

  入館料 大人500円 大・高生400円 中学生以下無料

      団体(20名以上)並びに敬老手帳及び、身体障害者手帳をお持ちの方は

      大人400円 大・高生200円

  所在地 〒799-0061

  愛媛県宇和島市御殿町9番14号

    TEL(0895)22-7776

     FAX (0895)22-7819

☆交通アクセス☆

 JR宇和島駅より徒歩25分

 バス:津島方面行

※ 全ての品物の画像は公益財団法人宇和島伊達文化保存会に帰属します。

  ◆期間中一部内容の変更もありますのでご了承下さい。
 
 
 

 
 

2013年12月20日金曜日

宇和島歴史文化研究会公開講座が開催されました。

12月8日(日)正午より、宇和島市生涯学習センター大ホールで、宇和島歴史文化研究会講座が開催されました。当日は会場に入りきれないほどの聴講者の皆さんが訪れていただきました。初めて一般公開される150年前の史料の公開や、幕末期研究の第1人者である近藤俊文氏の講演に熱心に耳を傾けていました。その様子をお知らせします。
 
 
 
会場である生涯学習センター3階の大ホールには、
数多くの貴重な資料が展示されました。
 
 
                              熱心に史料を閲覧する皆さん。                    
 
伊達宗城に宛てた都築莊藏の手紙(復命書)
 
  
 水野事務局長の開会宣言で講座がスタート。
 
 
 
宇和島歴史文化研究会赤松副会長のあいさつです。








 
 
              公益財団法人宇和島伊達文化保存会理事長
              伊達宗信様から祝辞をいただきました。

  
                    今回は「公開講座」ということで一般の聴講者も多く、
                    会場は熱気にあふれていました。

 
 
近藤俊文氏の講演 
演題「慶応三年伊達家文書からみた四侯会議・大政奉還・王政復古」

 
 
      2時間を超える講演もあっという間に終わってしまい、聴講された皆さん、
      もっと聞きたいという顔をされていました。
 
 
講座に参加して、多くのことを学びました。特に、幕末の動乱期において宇和島伊達家8代藩主伊達宗城公の果たした役割が実に大きかったことを改めて感じました。また都築莊藏、上甲貞一ら有能な家臣に恵まれていたことも知りました。都築莊藏については、明治時代に新聞記者、政治小説家として活躍した末広鉄腸の兄であることは知っていましたが、二条城での大政奉還賛成演説の様子を報告した全長10メートルもの史料を目にして、その迫力に驚きました。
 
 

(参考:当日配布された「展示史料解説」から)

「五月二十三日宗城公参内於公卿之間寄合 ”公の奮闘空し”」
 
摂政、議奏、武家伝奏衆、それに将軍慶喜、慶永、板倉らが居ならぶ公卿之間で、摂政九条斉敬の指名を受けて宗城公は発言、冒頭から慶喜と激突。宗城公は長州の寛大処分を先にして兵庫開港は後に回すべきと主張。慶喜は諸外国との約束期限があるので、開港と長州処分を同時に行いたいと主張。兵庫開港は諸公家の意見を聴いた後だと摂政が掣肘したので、慶喜と板倉が反発したが結論が出ない。慶喜は、政権を委任されている以上決定権は我にあり、我が決定に不満を抱くことは不道理だと主張。なんと摂政がそれに同意。宗城公反論。理屈としてはそうだが、不条理な決定をすれば天下一同が服従しないだろう、と脅かす。慶喜強弁、朝議として決定したのであるから、これは変更できない。宗城公反論、「不諫ノ天子ナシ」と言うではないか。正論は吐くべしと。追記には、政権委任である上は、兵庫開港を認めなければ、幕府は手を引くと恫喝した慶喜に、尹宮、鷹司父子が呼応して退場してしまった。そこで摂政はじめ大泣きに泣いた、とあるのだが、朝議は慶喜論に決定した。
 
 
「六(七?)月上甲貞一象次郎御政体変革之所見大意書取 ”象次郎の奉還論と西郷論” 」
 
大政奉還論を宗城公が上甲貞一にまとめさせたもの。幕府と薩越土豫が対立抗争して衰弱する日本を外国は窺っている。この国を救うには、幕府が関東の一大諸侯として天下の権を朝廷に返し、「王政復古」を実現するべきだ。具体論としては、天子が「政事堂」を開いて「天下の英才を選挙」して大政を委任する。いわゆる藩を基盤とする公議政体論であるが、その他には大学校と海軍場を設けるくらいで、具体性に欠け最初期の奉還論である。史料の最後の方が失われているので全貌は不明である。面白いのは象次郎の西郷論で、「兎角覇気を帯候議論に而動モスレハ兵力を仮(ママ)リ事ヲ成シ候」ような傾向があるが、西郷は奉還論に同意していて「必千戈を用ひ候料簡ハ聊かも無之候」とわざわざ注釈している。
 
 
「十月二十四日都築莊藏土藩建言並幕府形勢十月十五日迠次第書 ”都築莊藏の活躍”」
 
全長十メートルの京状報告書。後藤象二郎、西郷吉之助会見記も見所だが、十月十三日二条城での莊藏の大政奉還賛成演説が本命。無理矢理登城させられた莊藏は宗城公の指示ではなく、自発的意思で発言したことが判る。宗城公はこれを多として賞状を発している(本会場に展示)。
象次郎は、六月十七日の宗城公謁見で積極的支持が得られなかったこと、重役なども真剣に検討しなかったことから、宇藩に対する不満を募らせていた。十月六日の莊藏の象次郎との会見に同席して毛利恭助は、建白が容れられなければ「御兵力厭倒之志ヒ相見候」様子だった。象次郎自身も十月五日に、「寺村左膳帰藩同人帰着之上は御人数登京仕候」と発言していた。用兵建白は容堂が厳しく禁止したところだから、これらの発言の正確な意味は不明であるが、乾(板垣)退助が薩藩と武力倒幕を密約しているこの時、色々武力闘争の動きがあったのであろう。報告書の附録には、諸藩の戦備態勢が報告されている。建白が容れられそうにないので「十二而は坂本良馬も崎陽より上京、模様次第崎陽滞留兵隊(海援隊)召登候筈」、「浪華迠藝州強壮之兵二百計到着」とあり、長州兵も近日蒸気船で上阪。片や幕府は、十月十三日までに、加賀兵を大阪城警備に呼び寄せ、小浜藩その他の藩兵も動員していると報告している。西郷はじめ多くの者が、建白の採用はないと考えていたが、会津藩が方向転回して、政治改革路線に立ったので、象次郎建白を妨害しないであろうとの観測もあり、慶喜が建白を採用する可能性は高まっていたことが判る。