2011年3月21日月曜日

樺崎砲臺の碑

風化され文字も解読できないような状態となっている。宇和島の文化として保存しておく必要があり、いろんな方にお聞きした。本があるはず?とか誰やらが取り込んでいる?とか聞いたけれど資料は手に入らなかった。しかし、ある方が伊達図書館長だった兵頭賢一氏が和霊小学校より出版したの伊達家の流れの中にあることを紹介してくださり、その本を貸していただいた。そのコピーをアップしようかと思ったが、打ち直した方が見やすいし、今後のためになると思い、文言は旧字体で打った。しかし文字もパソコンにないものとか、欠字もあり、昭和初期においても判読不明なところもある。文の解読に関しては今後アップしたい。


樺崎砲臺を築く

安政二年三月宇都宮綱敏、松田常愛奉行として樺崎砲臺の築造に着手す。仝年十二月砲臺竣工す。
安政三年三月藩學敎授金子孝太郎樺崎砲臺の碑文を撰す。
碑文に曰く

自我、義山公始受封于茲土世々相承文教武備以化誘其民人至今之、公益□□□之皷而□之以誘其心作而興之  以奮其氣於是平擧藩之士文武彬々各有所就爲先是、幕府命沿海候伯巌防備以侍洋夷、公思所以來、幕府之志而藩辱、王室往年造砲台于封南之御荘而近海之防未盡巖也又欲造于樺崎會有地震之變民力疲弊、公乃大振恤之而
砲台之擧則始乎熄焉、二宮在明窃慨、公志之不遂也請以家資造之、公嘉其意許之今宇都宮綱敏松田常愛司之一倣西洋造築之法在明以備前石匠多吉郎者爲工長以安政二年乙卯三月興役以十二月畢功嗟夫十閲月之久風雨寒暑之□□□□常愛□一日不往督其役可謂善勤于公者矣在明之不吝家資出以供國家之用可謂善用材者矣然而非、祖宗興、公之深入人之敬人之厚安能致人々忘身奉公如此之盛哉銘日悍彼洋□譎詐百端恃其銃砲與其舟船憧々往來掠我海邊東西出沒年甚一年曰魯西亞日米利堅曰暎咭利其徒寔□何以御之一猛一寛不治之治王者行焉既許互市使彼知恩又巖防備使憚而處樺崎之地在鶴城側其山鬱忽其海碧測雨量之□通夷舶、公曰我封豈容奸惡矧茲近委湏巾戒飭既相其地既計其役昊天災民其舉或熄有臣在明思報、公德苟利于公家□□惜請而見許爰致其力玉月之山遊子之洲其土其石運之以舟□風無雨無夏無秋□之幹之苟安是倫綱敏前唱常愛後酬不同不送一心而謀截山塡海築之爲兵役使有法衆口不咻、公曰勿至豈敢優遊、公曰休之豈敢少休穹窿砲台賊所畏避扼賊衝路其欲不恣□□□門有巖眼眩心悸緃使其來遊敬無二砲台之成益巖其備孰其守之有臣如鷙、公誘之文進之于義、公勸其武益利其器倔何蓋一皷可殪之不信視其政治。
                           安政三年丙辰春三月
                          本藩文學 金子道孝撰(北宇和郡誌一三三頁)

0 件のコメント: