2011年3月31日木曜日

企画展

企画展第二弾! 「志賀家展」のご案内をいたします。
平成23年12月25日まで

宇和島藩の志賀家とは、政宗の忠臣だった志賀右衛門が宇和島に入府の折、山家清兵衛とともに秀宗に従ったことに始まる。家老職として職責を全うし、現在に至っている。




宇和島伊達家重臣 志賀家
 宇和島伊達家初代伊達秀宗は、仙台伊達政宗の長男であるが仙台伊達家を継がず、宇和島藩主となった。元和元年(1615)、秀宗が宇和島に初入国した際に、秀宗につき従った侍たちは「五十七騎」と呼ばれているが、その中でも政宗が派遣させた「御家老役」として、重きをなしたのが志賀()衛門(えもん)(ため)(さだ)である(略系図参照)。

志賀家は元来、伊達家に仕える以前は、佐竹家に仕えた家であった。仙台伊達家に仕えていた右衛門は、宇和島において3年のみの勤務ということで入国したのであったが、宇和島藩から1500石の禄を受けることとなり、仙台に残っていた息子の平四郎は、仙台藩において1500石の禄を受けることになった。右衛門の甥にあたる志賀喜兵衛(ため)(きよ)は仙台にいたが、宇和島伊達家に仕えることになり、元和9年(1623200石の知行となった。

以後、志賀家には加増が度々行われ、江戸末期の嘉永4年(1851)に記録されている500石の知行は、10万石の宇和島藩においては高禄であり、藩士の中では6番目に高い禄高となっている。
 
志賀家は代々、「九郎(くろ)兵衛(べえ)」を名乗る者が多く、目付、御使番、留守居役、御番頭、藩主の婚礼の御用掛、仙台藩への使者など藩の要職を務めており、役目を果たした褒美として、藩主からしばしば衣服等の拝領品を受けたという記録が宇和島伊達家には残っている。

また、志賀家と宇和島伊達家は、4代藩主村年の生母の甥が志賀家へ養子として入ったり、6代藩主(むら)(なが)8代藩主宗城(むねなり)の娘たちが嫁したりと縁が深く、藩主が志賀家を訪問することも度々あった。8代宗城の日記(公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵『御手留(おてどめ)日記』)には、江戸から宇和島へ戻ってきた宗城のもとへ志賀九郎兵衛がマナガツオを持ってきたといったことなどが記載されており、藩主の側近くに仕えていたことがうかがえる。

展示物

・伝 政宗拝領 裃(かみしも)
・志賀家裃
・赤鞘大小 貞宗
・雍姫所用 琴
・雍姫所用 まくら
・官板 実測日本地図
・蝶紋 陣幕
・環海異聞

                       環海異聞の一部






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