2012年8月2日木曜日

山家清兵衛忌

  山家清兵衛公頼は最上家に仕え、伊達輝宗と義姫の婚姻の折、お付き方として伊達家に仕官する。その有能さを政宗は非常に評価し、秀宗が宇和島10万石を与えられたとき、総奉行として同行させる。当時、宇和島藩は疲弊のどん底にあり、その建て直しに清兵衛は尽力した。領民の税を免除し、家臣達の録を下げたことで、領民には慕われるが家臣達には反感をかった。持ち前のまじめさが命取りになる。この暗殺にはいろんな説があるが、最終的には秀宗の上意討ちが現在、定説となっている。元和6年6月29日深夜、丸の内の山家邸が襲われる。蒸し暑い、雨の降る晩で蚊帳の四隅を切り落とされ、刺し殺される。息子3人、娘と娘婿(塩谷匠)をその子2名の8名が尊い命を奪われた。妻と母親と二人の娘は檜皮ヶ寮(伊方屋仁兵衛の別邸)に避難させていた。追っ手を避け、松野町吉野生に逃れる途中、娘二人は斬り殺される。妻と母親は日振島の清家久左衛門によって仙台に逃れる。仙台には宇和島に来る折、残してきた長男喜兵衛がいた。

山家家家系図(背景は 伝 山家清兵衛所用甲冑)


和霊廟

 元和20年6月29日惨殺された山家清兵衛公頼の法要が、今夕(新暦7月29日)六時半より、金剛山大隆寺の「御霊様(和霊廟)」において宇和島市の臨済宗妙心寺派のご住職方によって営まれます。清兵衛の遺徳を慕い、この祭りには大勢の市民がお参りしていたが、現在では数少なく寂しい限りである。


参拝所

家紋について述べたい。提灯に描かれている家紋は「釘抜き」、もともと山家家の家紋ではなく、宇和島に来て使用したものだと考えられる。それと抱き波(五つ波)も同様である。
山家家の正式な家紋は「向沢潟(むかいおもだか」である。


本殿前の参拝所


山家清兵衛墓所(五輪の塔)

参拝所奥の本殿の中に清兵衛公のお墓がある。

 

山家清兵衛公頼公の肖像画
宇和島藩伊達家5代藩主村候筆 寛政3年(1792年)


侠商伊方屋仁兵衛の墓

名前からすると伊方の出身か?
山家清兵衛が宇和島入りして後は、影に成り、日向に成り援助している。
清兵衛惨殺の後はその遺骸を運ぶことは勿論、西の谷で法要を行っている。
その西の谷、山家廟のすぐ横に墓はある。


丸の内の和霊様

城内、堀の内に在った山家清兵衛宅
現在は和霊神社が建立され、霊を慰めている。


丸の内の和霊様(山家清兵衛宅)の本殿

この神社の裏手に井戸がある。


御井戸

山家清兵衛暗殺の折、井戸に投げ込まれ殺された美濃(9歳)を祀る神社。
右手はその井戸である。
子どもの守り神として祀られている。


和霊神社

この和霊神社は5度にわたり、移動している。(佐々木正興教授「和霊信仰論」より)

◆森安(年代不詳) この名前は現在、橋の名前として残っている。
◆承応2年(1653年)檜皮杜(ひわだのもり)、秀頼は山頼和霊神社を建立する。
◆明暦2年ないしは3年(向山(現・城北中学校のいらずの森)
◆寛文7年(1667年)森安
◆享保16年(1731年)ないしは享保20年現在地、鎌江城跡の一部

昭和20年空襲により焼失、その後再建され現在に至っている。
この鳥居は石造りでは「日本一」である。


和霊神社本殿

2 件のコメント:

伊達博友の会 山家会 さんのコメント...

今年は、通夜で行けなくて残念でした。

やはり、この伝承?に基づいた「和霊様」の大河物語が欲しいですね。桜田玄蕃の甘言に基づく秀宗の上意討ち判断ミスという設定でなければいけません(笑)
もちろん。エピローグは祟りで死ななければなりません。(爆)

伊達者   さんのコメント...

伊達博友の会 山家会 様
大河ドラマはなかなか引っ張ってくることができないようです。帯に短し、たすきに長しです。48の話に分け、山場が4回が必要なこととロマンスが無いといけないなどと制約もあるようです。
昔ながらの口伝が良いですね。祟りを納めるための「和霊」、これに尽きます。