2013年5月17日金曜日

第2回 「出前講座」 を行いました!



 前回に引き続いて、「スーパー・サイエンス・ハイスクール」の研究指定を受けている宇和島東高校に赴いて、「地域科学史講座」(2回目)を行いました。

 宇和島地域の発展と共に歩んできた宇和島伊達家にまつわる文化財(伊達遺産)の学びを通して、宇和島の歴史や文化について理解や関心を深めることを目的としています。

 市教育委員会文化課と当館の学芸員が協力して講義を行いました。今回は、「城山を守る会」の皆さんにも協力いただいて、生徒の興味・関心を喚起するよう講座内容に工夫を凝らしました。


甲冑姿で登場していただきました。
 


博物館の役割や学芸員の仕事など、生徒諸君も熱心に聞いて
いました。キャリア教育としての成果はいかがだったでしょうか。




 〇提示資料の一例 (当時の宇和島藩の藩領について)









 当時の宇和島藩の領域は?
愛媛県の各藩の領域を色分けしたものを提示しました。
▼宇和島藩の領域(青)
現在の伊方町、八幡浜市、西予市、鬼北町と松野町の一部、旧宇和島市(下波除く)、旧津島町(北灘除く)、愛南町が含まれる。
▼吉田藩の領域(水色)
旧吉田町、旧宇和島市の下波地区、旧津島町の北灘地区、旧三間町、鬼北町と松野町の一部が含まれる。

秀宗が宇和島藩主の頃、吉田と宇和島は一つの藩としてまとまっていた。
秀宗が亡くなる少し前の1657年(明暦3年)、2人の息子に土地を分け
兄宗利には宇和島7万石を、弟宗純には吉田3万石を与えた。




〇提示資料の一例 (伊達家に伝わる「豊臣秀吉画像」について)




 国の重要文化財の指定を受けている「豊臣秀吉画像」が、伊達家に伝来した理由について分かりやすく提示しました。下のような図にまとめました。




 「豊臣秀吉画像」が伊達家に伝わっている理由は? 

秀吉が亡くなった1599年、秀吉の側近であった富田知信が遺徳を偲び描かせたとされる。知信もその年に亡くなり、息子の信高が引き継ぐ。
慶長4(1599)年2月18日(18日は秀吉の命日)付の賛文は、西笑承兌が揮毫。

 ※西笑承兌(せいしょう・じょうたい)・・1548~1607。相国寺第98世。秀吉、家康のブレーンの一人であった。

信高が1608年(慶長13)に宇和島に転封。秀吉画像も持参。信高は、この地に父の菩提を弔うため金剛山正眼院(現在の金剛山大隆寺)を建立し、この肖像画を奉納。幕末、金剛山で当時住職をしていた晦巌(まいがん)から、宇和島伊達家8代藩主宗城に献上された。
以後、現在に至るまで宇和島伊達家に伝来。



 今回は、「城山を守る会」の方のご協力で甲冑姿で登場していただいたり、刀剣を示したりするなど、興味・関心を喚起するよう講座内容について工夫を凝らしましたが、生徒諸君の反応も良かったように思います。
 あと残り2回の講座についても、さらに創意工夫を加えて臨みたいと思います。宇和島について高校生の皆さんの理解が深まり、郷土に対する愛着を持つことに繋がれば幸いです。






2 件のコメント:

伊左大夫 さんのコメント...

こんばんは。
前館長様には大変お世話になりました。

大変興味深い取り組みですね。

ところで学芸員になるためには何が必要ですか?資格の取れる大学に入り直すとか・・・
伊達フリークなアラフォーなおじさんなのですが・・・

伊達者   さんのコメント...

伊左太夫さん、こんにちは。

返事が遅くなってすみません。お尋ねの件ですが、以前私も調べたことがありましたが、今回当館の学芸員にも確認しました。①文科省所管の国家試験を受験する方法 ②大学等で規定の単位を取得して免許を取る方法 の2つがあるそうです。(単位の取得は通信教育等でも可です。)また、学芸員補として経験年数を積めば学芸員資格が取得できるようです。しかし、就職状況となるとかなり厳しいとのことです。資格は取れても、採用になるのが難しいとのことで、なかなか大変な仕事ですね。
また、コメントよろしくお願いします。