2013年5月9日木曜日

「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」 (報告その2)

 「ゆっくり歩いて宇和島通」と謳っているとおり、市内6カ所の名所・旧跡を3時間以上かけてゆっくり歩きました。風薫る素晴らしい五月晴れのもと、4.5kmのウオーキングの楽しさを満喫しました。

 えんま様で有名な西江寺の前を通りました。司馬遼太郎の小説「花神」に出てくる前原巧山の墓があります。




④ 龍華山等覚寺を訪れました。宇和島伊達家初代藩主秀宗が生母を弔うために開山しました。初代秀宗(ひでむね)、2代宗利(むねとし)、3代宗贇(むねよし)、4代村年(むらとし)、6代村壽(むらなが)、8代宗城(むねなり)のお墓があります。 

ちょうど翌日がお稲荷さんのお祭りということで、幟旗がたくさん立っていました。



   歴代藩主の墓所を示す表示があります。




⑤ 木屋旅館を訪ねました。明治44(1911)年、創業。政治家では、後藤新平、犬養毅、作家では司馬遼太郎、吉村昭、五木寛之のほか国語学者金田一春彦らが宿泊しました。最近、期間を限定して営業しているそうです。



ちょうど向かいの宇和島税務署の横に、児島惟謙の生家跡があり、石碑が建っていました。





     市指定史跡 児島惟謙の生誕地

 児島惟謙は宇和島藩家老宍戸家の家臣金子惟彬の2男として、天保8年(1837)2月1日ここにあった宍戸家の長屋で生まれた。少年時から文武に励み、壮年になっては諸藩の志士と交わり国事に奔走した。維新後は司法省に奉職して明治25年まで長い司法官生活を送った。明治24年(1891)に大津市で巡査津田三蔵が当時来日中のロシア皇太子に傷害を加えたいわゆる大津事件が突発した。その当時惟謙は大審院長としていっさいの俗論を退け、政治的圧力にも屈せず司法権の独立を守り抜いた。このことは我が国の司法史上に不滅の光を放っている。
                        昭和38年2月11日 指定  宇和島市教育委員会





 ⑥ その後、丸之内和霊神社(私は「鳩の和霊様」と呼んでいました。)を経て、最後は護国神社の近く(宇和島城の上り立ち門)にある児島惟謙の銅像を訪ねました。



 大津事件で知られる児島惟謙ですが、司法の独立を維持し、三権分立の意識を広め「護法の神」と讃えられる法曹界の偉人です。








市指定 有形文化財   宇和島城上り立ち門(のぼりたちもん)

 この門は、宇和島城にあった多くの城門の一つであって搦手口(からめてぐち)から城へ登る上り口に位置している。規模は大きくないが、建築様式は薬医門(やくいもん)形式の切妻(きりづま)、本瓦葺であって、丸瓦の先端には、伊達家の紋章の一つである九曜(くよう)の紋がついている。建造年代は明らかでないが、城郭(じょうかく)全体の大修築が行われた寛文年間(1661-1672)と推定される。諸矢倉・追手門・搦手門などの失われた今日において、この門は天守閣とともに、宇和島城の大切な遺構である。                  
                         昭和38年2月11日 指定  宇和島市教育委員会

※ 薬医門(やくいもん)とは・・・本柱の後方に控柱2本を建てて、切妻屋根をかけた門。
      大規模なものは正面を3間(本柱4本)とし、控柱も4本とする。



 最後は、ゴール地点である城山公園まで登りました。「愛の葉ガールズ」の皆さんやいろいろな人のパフォーマンスがあり、大勢の参加者も盛り上がっていました。高校時代に、毎週城山往復マラソンをしていました。ここの上り立ち門から頂上の天守まで一気に駆け上がるコース。相当きつかったことを覚えています。おかげで体力がつきました。




  閉会後、久しぶりに頂上に登り、天守に入場してみました。「鶴島城」・・・美しい姿にふさわしい名前ですね。とても有意義な一日を過ごせました。次回も必ず参加したいと思います。関係者の皆さん、ありがとうございました。



  宇和島城の沿革

 戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文15年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正3年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同13年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。
 
 その後、同15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同6年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同18年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり藤堂良勝を城代とした。
 
 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)3月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、2代宗利のとき寛文4年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同11年(1671)に至り完成した。天守閣は国の重要文化財に、また城郭は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。
                              
                                      宇和島市教育委員会







 




2013年5月2日木曜日

「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」 に参加しました。(報告その1)

 4月28日に実施された「伊達なまち歩き ぶらり宇和島」に参加しました。当日は好天に恵まれ、絶好のウオーキングびより。大型連休二日目とあって、400人近い参加者がありました。昨年から実施されているそうですが、宇和島のことが勉強できました。



(主催)宇和島市・ぶらり宇和島実行委員会  (運営協力)宇和島ケーブルテレビ  FMがいや
(協力)宇和島商工会議所 ・ 市民ボランテイアグループ


 きさいや広場で出発式が行われました。石橋市長のあいさつに続き、宇和島伊達家御当主によるエールを合図に、午前10時A~Hグループ8組に分かれてスタート。「ゆっくり歩いて宇和島通」を合い言葉に、市内の名所・旧跡6カ所を巡りました。

このブログでも以前お知らせしたとおり、当博物館前館長による案内で、FMがいやによるラジオ実況中継も行われました。

おなじみのモーニ君も参加していました。


① まず始めに、宇和島駅前にある大和田建樹の詩碑を訪ねました。「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・」で知られる鉄道唱歌の作詞者です。歌詞は334番まであるとか・・・
  彼は、宇和島市丸之内出身で明治の文学者として多くの業績を残しました。






 
② 幕末の蘭学者 高野長英の隠れ家跡地を訪ねました。宇和島伊達家8代藩主宗城が、医者で蘭学者の高野長英を家老別邸で密かに匿ったそうです。幕末四賢侯の一人である宗城の進取の気性が窺えます。





③ 穂積橋(ほづみばし)を訪ねました。日本初の法学者、穂積陳重が「銅像となって仰がれるよりも、橋となって多くの人にふまれたい」と言ったことにより名が付けられた橋として宇和島人にとってはおなじみです。
 「うーん。やっぱ、偉い人は言いなはることがちがわい。・・・」 改めて素直な感想を持ちました。


ガイドさんの説明も熱が入っていました。


 
 きさいやロード(アーケード商店街)では、市民ボランテイアの皆さんや商工会議所の方々による飲み物の差し入れや、太鼓演奏などで疲れを癒やすことができました。多くの皆さんの善意で、このイベントが成り立っていることを感じました。   
             
龍神太鼓の迫力ある演奏に感動しました。

2013年4月24日水曜日

「出前授業2013」を始めます。


 伊達博物館では、平成20年度から、各小・中学校を訪れ、宇和島伊達文化に関する授業を行ってきました。この「出前授業」は、宇和島歴史文化研究会の発案で発足したものですが、今年度も「出前授業2013」と銘打ち、実施する予定です。

 これに先立ち、今年度「スーパー・サイエンス・ハイスクール」の研究指定を受けた宇和島東高校から依頼があり、学芸員が高校に出向いて出前講義を行いました。

 「リージョナルサイエンス講座Ⅰ(地域科学史講座)」と題して、宇和島地域の発展と共に歩んできた宇和島伊達家にまつわる文化財(伊達遺産)の学びを通して、宇和島の歴史や文化について理解や関心を深めることを目的としています。対象は高校1年生160名です。今回を1回目として4回計画しています。

 生徒達の学びが深まり、郷土宇和島を愛する心がはぐくまれることを願っています。



 
入門講座として、博物館の役割や学芸員の仕事について説明しました。




 
                  












                    熱心に講義を聴く高校生。講師もやりがいを感じたことでしょう。


2013年4月19日金曜日

おひな様の収蔵作業をしています。




先週まで開催していた「ひな人形展」が終わり、今は、おひな様の片付けの真っ最中です。
 今週は、学芸員総掛かりで、ひな人形の収蔵作業を行っています。下の写真は、大宮家から当館に寄贈いただいたひな人形をしまっているところです。このひな人形は丸平大木人形店5代目大木平蔵作のものです。五人囃子が手に持つ楽器類、琴などの調度類も、ほんとうに細かく正確に作られており、作業も神経を使います。

 来館される方から、「毎年、この人形展を楽しみにしていますよ。」とのお話を聞きました。ありがたいことです。


人形は顔が命。作業も慎重に!



五人囃子。どの人形も、かわいらしい表情をしています。



どの調度類も、細かな所まで正確に作られています。



 




どの人形が持っていた道具か、きちんと整理しなければなりません。

 


ひとつひとつ、丁寧に包んで決められた箱に収納します。



細かな調度類、琴の弦も正しく張られています。

 







2013年4月11日木曜日

「ひな人形展」終了、展示替えをしました。

 毎年、春に行っている「ひな人形展」(平成25年2月21日~4月7日)が終了しました。開催中はたくさんの方にご来館いただき、ありがとうございました。

 4月9日、10日の2日間、展示替えを行いました。期間中に館内を華やかに彩っていたひな人形を、丁寧に片付けて収蔵庫に納め、館内の模様替えを行いました。学芸員を中心に館内の職員総掛かりで取り組む大作業でした。


              細かい装飾具も、一つ一つ丁寧に包みます。



慎重に時間を掛け、心をこめて作業を行います。



来年の展示まで、ひな壇の木組みも一休みです。




次は太閤画像です!

 平成25年4月27日(土)~5月12日(日)には、「豊臣秀吉画像展」(特別展示)を開催します。この画像は現存する秀吉画像の中でも特に優れたものの一つで国の重要文化財に指定されています。歴史の教科書でおなじみの方も多いと思います。多数の方のご来館をお待ちしています。


2013年4月4日木曜日

大河ドラマを見るのが、また楽しみになりました。

  四月を迎え、伊達博物館も新しいスタッフを加えて新年度がスタートしました。博覧強記の前館長の後を引き継ぎ、ささやかながらこのブログも更新して参りますので、引き続きご愛顧のほどお願いいたします。

 先日、博物館の周辺を散策してみました。若かりし頃(隣の高校に通っていた頃)には気が付かなかったことを見つけました。博物館と天赦園グランドの間の道路沿いに、一本の柳の木と史跡案内板があります。

 毎週日曜日には、NHK大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに視聴していますが、西郷隆盛が宇和島藩伊達家八代の宗城侯に会うため、宇和島に来ていたのですね。幕末の動乱期を取りあげた読み物等が好きな人間としては、うれしくなってしまいます。

 案内板には次のように書かれています。(宇和島市教育委員会の史跡案内から)

 伊達宗城 冠の柳


 文久3(1863)年、3月11日 孝明天皇の賀茂神社行幸に宇和島藩前藩主伊達宗城もお供した。宮中から賜った神社での食事には柳の小枝が添えられ、それを冠に挿した。宗城はこの小枝を持ち帰り、鉢植えにすると根付き、伊達家の庭園に植えた。後に親木が枯れたが、この柳はその親木の幼木を育てた二世である。



 宗城と西郷隆盛会見の場


  慶應3(1863)年2月23日、宗城に京都での四侯会議開催の協力を求めるため、薩摩藩士西郷隆盛が来宇し、翌24日に二人は会見した。現在では枯れてしまったが、ここはもともと伊達家の邸内で二人の会見当時には松の木が植わっていた場所でもあった。






2013年3月31日日曜日

ラジオウォーク

 FMガイヤでラジオのパーソナリティを8回に渡ってやりました。内容は、このブログ「伊達博通信を元にしています。何しろ、伊達家のエピソードは、あまりにも多いので、はしょってしかできなかったのが、心残りでした。このブログにその内容を貼り付けたいと思ったのですが、その機能が無いため、あきらめました。もし必要な方がおられましたら、博物館でお申し付けください。

 最後の収録の折、次のことを頼まれました。お礼奉公のつもりで引き受けました。それは広報やUCATの番組案内などで、宣伝されている「ラジオウォーク」です。アナウンサーと共に歩いて実況中継をするという役目・・・どうなることやら、初めてのことなので分かりませんが、何とか務めたいと思っています。

 このブログ、担当の一人だった私は3月31日で退職します。これからも「伊達博通信」は続けていきますので、ご愛顧の程よろしくお願い致します。ラジオウォークでお会いしましょう。

広報パンフレット表


広報パンフレット裏

2013年3月27日水曜日

城と宇和島さんさ

青空に映える宇和島城
 
別名「鶴島城」にふさわしい姿である。
 

2013年3月24日日曜日

宇和島藩伊達家菩提寺

銅版画展

伊達博物館ロビーにて展示中!


龍華山等覚寺

銅版画を刷り、拡大コピーしたものである。


金剛山大隆寺

銅版画を刷り拡大コピーしたものである。


解説版

金剛山大隆寺 龍華山等覚寺

銅版画の発見について
 
 金剛山大隆寺において明治35年(1902年)に作成された銅板が原版が発見され、龍華山等覚寺に伝わる原版と併せて、明治時代の伊達家菩提寺の様子が明らかとなりました。

◆発見の経緯

 龍華山等覚寺には「明治35年3月金沢済美館製版」と記された銅版画原版が伝わっており、以前から知られていました。昨年9月頃、金剛山大隆寺において新たに住職を迎えるために整理を行っていたところ、「明治35年2月刻金沢済美館製版」と記された原版を発見しました。

◆銅版画の内容について

 銅版画はいずれも寺域を俯瞰で描写し、「龍華山等覚寺之景」では再建前の本堂や、今は無い霊牌堂、伊達家墓所の拝殿などの様子が描かれています。ただし、文字情報では「鶴松城」や「山門 設計中」など事実と異なる記載も見受けられます。「金剛山大隆寺の景」では明治38年に亡くなった9代藩宗徳公の墓所が無い点、戦災で焼失した和霊廟山門と参籠堂が描かれている点、御霊屋と本堂の間に「設計中」とかかれた渡り廊下が描かれている点など、現在と異なる様子が描かれています。両絵図ともに明治期の両菩提寺を今に伝える貴重な資料です。




2013年3月13日水曜日

全国藩校サミット鹿児島宣言

  全国藩校サミット鹿児島大会に参加し、その宣言文を聞き、現在の日本の国が抱えている教育の問題点を解決する手立てが、藩校の教えによって、唱えられていることを改めて確認しました。江戸の昔より、教育の基本理念を各藩では、言葉は違えども実践しています。会津の「什の教え」、鹿児島の「郷中」などが代表的なものだと思います。それを生かすための心身としての、宣言文をここに掲載させて頂きます。

全国藩校サミット鹿児島宣言

  春3月、私達は鹿児島の地に集い、11回目の全国藩校サミットを開催しました。これまで各地で催された10回のサミットの成果の上に、各藩校で、誇り高く自らを錬磨した先人達の真摯な態度と精神に学び、その実りを共有してきました。薩摩でも幼少期に「負けるな。嘘をつくな。弱い者をいじめるな。」と、厳しく躾けられ、また、「いにしえの道を聞きても唱えても我が行ひにせずば甲斐なし」などの教えを具体的に学び、進取の気性に富む若者を育んできました。
  鹿児島大会開催に当たり、昨年の水戸宣言の「往ぎたるを彰かにして来たるを考え」を多とし、往時の実りを現代化し、未来にどう繋ぐかを工夫して参りました。実行委員会に県下の大学生達が参加し、学生達の活動も大きな成果を遺しました。今後も「造士館講座」「郷校講座」等の試みを地道に重ね、このサミットを通過点とし、我が国の、そして世界の未来を担い、人類の豊かな将来を確乎として構築する若者達と共に、全国藩校サミットの成果を共有したいと心に期しました。
  私達が自らも学び、行動し続けることによって、若き彼らが、もっと成長し、豊かな、美しい日本を、世界を、逞しく多様に創出してくれ、若者達の夢が、いよいよ大きく膨らむように、また力強く学び続けられるように、能う限りの支援をし続けることをここに宣言します。
                                   
                                 平成25年3月9日
                                                                          第11回全国藩校サミット鹿児島大会