2011年6月12日日曜日

国宝彦根城

秋の特別展のご協力に対して彦根城博物館にご挨拶に伺った。2日間であったが、非常に好意的に接していただき恐縮した。国宝の彦根城もお忙しい中、御案内いただき感謝に堪えない。ご厚意に甘えることなく、秋の特別展を成功させねばと改めて思った。

彦根城はもともと五層だったものを三層にし、移築されたとか。歴史をお聞きすると400年の流れが身近に感じる。それにしても佐和山城が目と鼻の先にあるとは驚きであった。

国宝「彦根城」


2011年6月5日日曜日

2代公伊達宗利には3人のお姫様(三保、豊、光)しか子どもがなく、3代には仙台藩伊達家より宗贇公が養子に入られている。光姫は京極家に、豊姫は真田家(更埴市、現千曲市)に嫁いでいる。

このあんずの始まりは元禄時代、豊姫が、松代藩主・真田幸道候に輿入れする際、故郷の春を忘れじとしてあんずの苗木を取り寄せたものが始まりといわれている。昔は漢方薬としてあんずが重宝され、当時の松代藩が森村、倉科村に栽培を奨励し、普及して現在のあんずの里になったという。市内の森、倉科地区は、「一目十万本日本一のあんずの里」として知られてる。4月には「あんず祭り」「豊姫祭り」でも名高い。

その真田家のある更埴市(現千曲市)と宇和島市は友好姉妹都市の締結をしている。つまり伊達家つながりである。この更埴市の方々が来宇されたおり、杏の木はどこにあるのか探された。当時、宇和島には杏はなかった。それではということで杏の苗木を送っていただいた。それが伊達博物館偕楽園と天赦園にある杏の木である。「里帰りの杏」

天赦園の杏


2011年5月26日木曜日

ネットワーク

この季節になると純白の花を付ける泰山木。もともとは中国原産とか。
この博物館を37年に渡り見続けてきた大木。
この花が散ると梅雨を迎える。

先日、嬉しい便りがもたらされた。ある町の美術館の学芸員さん、突然の来館。
ちょうど、伊達家の御当主が来館され、退館される所だったので紹介し、そのあと暫く懇談した。
博物館のブログを見ているとか。
「秋の特別展のポスター」のできあがりが早いとお褒めの言葉が・・・
見ていてくださる方はいる、と思わず嬉しくなった。
また、宇和島城 城山を守る会 「大目付日記」にも伊達博通信の紹介をしていただいた。


これがネットワークと言わないで、なんと言おうか?
インターネットではWebという。Webとは蜘蛛の巣・・・
張り巡らされた糸のごとく、これからいろんな施設や博物館、美術館に広げていけたらいいな!

陽光に輝く泰山木の花


2011年5月23日月曜日

調査・研修

2月24日の読売新聞朝刊の記事を読み、高知県立歴史民俗資料館を訪れました。
「政宗消息」の軸(元は書面)を快く見せていただいた関係者の皆様に感謝。

この軸は寄贈したいただいたものの中にあったそうです。
まさかと思い調査を仙台に依頼。
仙台市博物館学芸員さん、元仙台市博物館佐藤館長さんの「間違いない。」の報告で驚きと感動。
内容は本多正純に家康様にお取り次ぎをとの依頼状。
そして政宗は二条城で会見の後、大坂冬の陣に親子で参陣。
その手柄により、長男秀宗には宇和島十万石が与えられた。

公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵の政宗「覚」(1614年)の紙質、字体は同じもの。
花押については政宗は数十種類使用しているので別の種類のものでした。
「仙台藩の跡取りはまかり成らぬ。」と言われた長男秀宗を思う親心からの依頼状。
それによって宇和島藩伊達家十万石の城主に・・・
そして「覚」(五箇条の戒め)に繋がる。
なにか親子の情愛のストーリーが描けます。

現在、宇和島市はこの繋がりで仙台市、大崎市、北海道当別町と姉妹友好都市。
今回の被災に対して何か協力できることがあればと現在、模索中です。
 

2011年5月6日金曜日

秋の特別展

恒例となった伊達博物館「秋の特別展」の詳細ができました。今年は初代伊達秀宗の正室「亀姫」の彦根藩井伊家の名宝をお借りして開催します。順次ブログ情報としてアップしたいと思っています。まずはポスターから・・・

2011年4月28日木曜日

高野長英顕彰施設

4月28日新町の高野長英の隠れ家敷地内で高野長英顕彰施設オープニングセレモニーが開催された。石橋寛久宇和島市長挨拶の後、テープカットを行い、酒井設計事務所長さんの建築物に関する説明がなされた。

オープニングセレモニーテープカット


2011年4月26日火曜日

記事表示の変更

Bloggerのブログは記事を書くのに長々と書き連ねていくようなテンプレートでした。最近になって「もっと読む >>」というアイコンが追加され、表示が非常にコンパクト化できるように改善されました。当ブログもそれに従って編集し直しし、採用しました。訪れる皆様方、興味がわきましたら是非「もっと読む >>」クリックをお願いします。

2011年4月24日日曜日

取材

常設展の開始や企画展、特別展などテレビ、新聞などの取材がよく入る。飛び込みで特集などの依頼も多い。そのたび「公益財団法人伊達文化保存会」と協議しながら受けるようにしている。

この度の企画展「志賀家展」では地元のUCAT(宇和島ケーブルテレビの取材を受けた。撮影の合間に学芸員に内容などについての質問も・・・

今回は2名の取材


2011年4月10日日曜日

新しい試み

4月、5月、6月の第二、第四の日曜日に天赦園に於いて呈茶の催し物が開催される。今日はその一回目である。主催は宇和島伊達文化保存会と淡交会宇和島支部である。

この行事は、宇和島市の活性化のため、宇和島城、伊達博物館、天赦園と歴史を中心とした催しの試みの一つである。

                          天赦園呈茶ご案内

 

2011年4月4日月曜日

毎歳忌

金剛山に於いて平成23年3月29日(火)11:00~毎歳忌が開催された。開山大室和尚の供養を大本山より霊雲院則竹秀南老大師をお迎えして執り行われた。呈茶は鎮信流宗家のお点前により厳粛に行われた。また宇和島近辺より、吉田大乗寺の御老師をはじめ臨済宗妙心寺派のご住職が参加され盛大であった。
そのあと、京都の精進料理のお田長の食事、そして鎮信流のお茶をご馳走になり散会した。
すべて初めてのことであったが、勉強にもなり、いろんな方との交流にもなり楽しむことができた。

金剛山大隆寺本堂
(扁額は隠元老大師筆と言われている。)


2011年3月31日木曜日

企画展

企画展第二弾! 「志賀家展」のご案内をいたします。
平成23年12月25日まで

宇和島藩の志賀家とは、政宗の忠臣だった志賀右衛門が宇和島に入府の折、山家清兵衛とともに秀宗に従ったことに始まる。家老職として職責を全うし、現在に至っている。



2011年3月27日日曜日

天赦公園駐車場整備

昭和49年開館の頃には貸し切りバスのお客さんが多く、駐車場はバスで埋まり、入館者数も多かった。現在では自家用車が主流でバスの駐車場も多いときには利用しなければならない。2年前の特別展では旧天赦園グランドに廻ってもらった。しかし、今では天赦公園(旧天赦園グランド)の工事中なので特別展の駐車場は悩みの種だった。その解決策で新津石油跡を市が購入し、現在、駐車場として活用できる工事を行い完成した。管理は都市整備課で、普段は来年度完成する天赦公園の駐車場となるが、特別展やイベントの時には博物館の駐車場としても使用できると聞いている。


2011年3月24日木曜日

高野長英

宇和島市新町にある史跡である。このたび、敷地跡を宇和島市が購入し、公園を造っている。その碑文が住宅が撤去されることによって現れている。この石碑は公園内に移設される。高野長英が住んでいたときの住居は残っていない。吹き荒れる「尊皇攘夷」の時代に生きた長英、何を考え、何を成そうと思ったのか。作家吉村昭氏は「長英逃亡」執筆のため、宇和島のこの地を始め、たびたび訪問している。

                       高野長英の居住地跡


2011年3月21日月曜日

樺崎砲臺の碑

風化され文字も解読できないような状態となっている。宇和島の文化として保存しておく必要があり、いろんな方にお聞きした。本があるはず?とか誰やらが取り込んでいる?とか聞いたけれど資料は手に入らなかった。しかし、ある方が伊達図書館長だった兵頭賢一氏が和霊小学校より出版したの伊達家の流れの中にあることを紹介してくださり、その本を貸していただいた。そのコピーをアップしようかと思ったが、打ち直した方が見やすいし、今後のためになると思い、文言は旧字体で打った。しかし文字もパソコンにないものとか、欠字もあり、昭和初期においても判読不明なところもある。文の解読に関しては今後アップしたい。

2011年3月16日水曜日

お見舞い

東日本大震災の被災者の皆様方
               心よりお見舞い申し上げます。

                  宇和島市立伊達博物館職員一同


宇和島藩伊達家初代「秀宗」所用甲冑

「紫糸威二枚胴具足」

                                 

2011年2月27日日曜日

子を思う親

24日の読売新聞の朝刊に掲載された記事。独眼竜「口利き」依頼書状をボランティアガイドの方に持参いただいた。内容を見ると今まで推測だったことが、現実味を帯びてきた。

秀宗に宇和島10万石が与えられたのは、父政宗が政治的に動き、実現できたという裏付けの証明となる。側室の子、秀吉の猶子となっていたため、仙台藩の跡継ぎにはできにくい。そこで、この口利きの依頼状となったと思われる。この書状は徳川家康の腹心本多正純に送った「身上之義」で土佐藩士の子孫の方が保管されていた。高知県立歴史民俗資料館を通じて、伊達家に詳しい仙台市博物館が筆跡、政宗の花押などで確認した。(読売新聞を要約)

大坂冬の陣のため、家康が京都二条城にいた1614年11月10日付での書状。このあと政宗は家康と面会する。政宗と秀宗はこの後、冬の陣に参戦し、その功績で10万石の宇和島藩を与えられることになる。東北の雄、政宗に対する徳川家の思惑は、秀宗の婚儀に対しても徳川の重臣、井伊直政の娘「亀姫」を嫁がせたことでも分かる。

しかしながら政宗の心の不安は計り知れない。秀吉、家康の人質として甘やかされ、育った境遇を特に心配している。宇和島入府の折には、仙台藩の家臣の中でも選りすぐりの57人をつけて送り出している。世に言うところの「伊達57騎」である。

2011年2月25日金曜日

収蔵庫空調完成

1月より始まった改修工事が完成した。23日最終チェックの温湿度を計測したところ、予定通り温度23度(誤差±1度)、湿度60%(誤差±3%)。見事に表示している。これで安心して展示するものの保管管理ができる。

     空調調整盤                                空調調整盤内部

 
 


2011年2月21日月曜日

「宇和島さんさ」の踊り

「宇和島さんさ」の由来については前に書いた。その踊りの写真がどうしても見つからない。踊り終わって歩いている姿とか、小さなWeb上のものはあるが、鑑賞に堪えない。博物館が探していることを聞いた方が、「宇和島お城祭り」でお城の前で踊っている「宇和島さんさ」の写真を持参さんしていただいた。感謝とともに掲載させていただく。宇和島武士のプライドをかけた歌であり、振り付けられた踊りも格式の高いものとなっている。今後の復活を祈念して・・・(撮影者は不明)



2011年2月19日土曜日

ひな人形展

恒例のひな人形展が始まった。宇和島の園児達、児童たちの夢をふくらませるこの展示。この展示は、同時に宇和島藩伊達家の歴史を知ることにもなる。目を輝かせながら、この人形は何? 大きさは? 数は? などなど質問が飛び交う。会期は4月4日(月)までとなっている。広報などでは3日までとなっているが、宇和島地方のひな祭りが4日(月)ということもあり、休館日だが開けることにした。

大宮庫吉氏より、寄贈いただいた「有職(ゆうそく)びな」は幅7m50cm、五段飾りの見事なものである。その展示の苦労を見ていただきたい。最初に位置決め、そして段の骨組みの組み立て、そして緋毛氈を敷く作業、そして、ひな人形や調度類を並べる作業となる。流れは簡単に書いたが、繊細な手際、力仕事と時間、館の職員全員が力を合わさねば展示できない。大宮家のひな人形だけではない。享保時代に作成された鍋島家から7代藩主宗紀公に嫁いできた「観姫」のひな人形も展示に工夫、苦労をする。いずれも歴史的価値のあるものであるため、細かい所に神経を使わねばならない。実質展示替えには、まる二日かかる。

その他、伊達家に伝わるひな調度類も展示している。見たことがある方も、見たことがない方も是非この機会に伊達博物館を訪れていただきたい。
                                 大宮家の有職びな(館蔵品)


2011年2月13日日曜日

樺崎砲台跡

幕府から沿岸防備の命令により宇和島藩もそれに従っている。その大砲の製造に関わる反射炉の建設も盛んであった。この遺構は各地に残っている。韮山、萩、佐賀、水戸、薩摩など。宇和島藩も鋳造するための施設を作っている。その場所は宇和津彦神社の下あたり。余談ながら、火縄銃や前原巧山の蒸気船の蒸気機関もここで作られている。

先日、ある方より樺崎砲台の石碑の文字について問い合わせがあった。碑の文字が消えかけているが、記録があるのかというもの。早速、整備されている砲台跡に出向いたが、文字を読むことができなかった。その後の調査で碑文が本になっていることを知った。現在、貸していただけるようお願いしているところである。時期を見て掲載したい。次の樺崎砲台に関する説明は「旧宇和島の自然と文化」よりのもの。写真と併せて見ていただきたい。

市指定史跡 樺崎砲台跡                                 所在 住吉町
 安政2年(1855)3月から12月にわたり、10か月かけて宇和島湾の守りとして築造された砲台の跡である。
 黒船とよばれた外国艦船が、日本近海にも出没しはじめて、鎖国政策を久しく続けてきた幕府は、沿岸諸藩にその防備を固めるよう命ずるにいたり、宇和島藩では、すでに嘉永3年(1850)高野長英の設計で、御荘久良に砲台が完成、のち宇和島湾にも設けようとしていたが安政元年(1854)の大地震のため民力の疲弊を慮り、その計画をいったん中止していた。
 ところが、二宮長兵衛在明という篤士家の出資申し出があり、藩もついに樺崎砲台築造に着手し、宇都宮九大夫綱敏、松田源五左衛門常愛を奉行としてはじめた。
 玉か月の山や遊子の海岸から石や土砂を運び、山をきり海を埋めて構築し、5門の砲がすえられていた。のち慶応2年(1866)宇和島に来航したイギリス軍艦に対して礼砲を撃ったことが、アーネスト・サトウの記録に見られ、実戦には役立つものではないらしいとも記されているが、宇和島藩が西洋造築法を導入して成ったものの一つとして意義が深い。
 砲台跡傍らに竣工を記念し、その経過を記して、安政3年(1856)に建てられた碑石が今も残っている。碑文は藩学明倫館教授金子孝太郎の撰になるものである。
 その後、元治元年(1864)湾の向かい側の戎山にも砲台が築かれた。

2011年2月9日水曜日

天赦公園整備

天赦公園整備事業が着々と進んでいる。この場所はお浜御殿のお庭、偕楽園跡である。つまり伊達博物館の前で写真は市道であるが、昔は偕楽園内であった。写真の松は伊達宗城と西郷隆盛が会見をした場所に植えられている会見の松である。公園は芝生が主で木々が植えられると聞いている。撤去工事の期間は2月末までで、その後、芝生など植栽の工事が始まる。

                       西郷・宗城会見の松


2011年2月2日水曜日

おしどり

一昨年の後期展に應挙の「みずどり」と「鯉」の軸を展示した。この軸は屏風だったものを軸仕立てにしたものといわれている。そのため一つの題材が6本の軸となっている。その軸の前にちょうど天赦園の池に来ていた「おしどり」の写真を展示した。天赦園におしどりが来るのは始めてとか。おしどりは雄が派手な色合いで、雌はくろっぽく目立たない。子育てのため天敵から子どもを護るため目立たないのかも知れない。おしどりは、かならず「つがい」で移動すると聞いていたので、雌を探したが見つけることが出来なかった。警戒していたのかも知れない。

条件的に難しかったが、おしどりの羽もガラスケースに入れ軸の下に展示した。

天赦園のおしどり

天赦園のおしどり




2011年1月30日日曜日

雪の日

 今日は朝から雪模様でした。一時は北の国と見間違うばかりの吹雪。牡丹雪ながら見る間に雪景色となりました。博物館の庭には藤(伊達家が藤原の出)と家紋の竹に雀から竹が植えられています。この寒い雪の中、目的を持ってお客さんは来ていただきます。展示の一つ一つに心配りが必要だと改めて感じました。

                         偕楽園の藤棚


2011年1月29日土曜日

収蔵庫空調工事

収蔵庫の改修工事が始まった。機器類の搬入から室外機撤去作業、天井裏の二つの空調機器撤去が始まった。室内温度23度、湿度60%の設定のためには、部屋を二重にする必要がある。つまり魔法瓶を想像してもらいたい。間の空気の調節で道具類の環境変化を抑える働きのためである。もう一つの大きな作業は、温度変化を一時間あたり0.5度単位にしなければならないこと。何よりも急激な変化というのは品物に悪影響を及ぼすからである。

                                                      空調工事のための車


2011年1月25日火曜日

勤王僧「晦巌」

 金剛山大隆寺をたびたび訪れる。境内の池の上に大きな石碑が建っていることに気付いた。碑銘は「晦巌禅師碑」。晦巌は金剛山大隆寺の15代住職。幕末に生きた勤王僧でも名高い。ここには貴重な資料、市指定の有形文化財「晦巌日記」が保存されている。この解読に「晦巌日記学習塾」が毎月開催されている。晦巌老師の書は達筆で癖があり、解読は難解を極めると聞いている。

  面白いことに昭和22年城北中学校の先生よりの寄贈で、この晦巌日記の写しが博物館にあることが分かった。解読ではなく、字そのものを丁寧に写し取ったものである。誰が模写したものかは調査したが不明であった。


2011年1月20日木曜日

高野長英砲台跡(愛南町久良)

蛮社の獄により投獄される。火事に乗じて脱獄し、幕府のお尋ね者になった長英は宇和島藩伊達宗城の招聘により宇和島に入り、家老である桜田佐渡の別邸に居住するようになった。彼の変名は蘭学者伊東瑞渓という。嘉永元年(1848年)4月のことである。彼はここで藩士たちを教えたり藩のために蘭書の翻訳に努めた。また、宇和島藩の軍備の近代化にも携わり、愛南町久良の砲台の設計築造に従事した。なぜ久良なのか? 外国船の上陸拠点とならないように宇和島藩の南の要として築いたと言われている。

現在の砲台跡は石垣のみ残り、当時の面影はない。久良湾から豊後水道に視界が開け、養殖筏が、ただ見えるのみ。この湾の水深は深く、以前には太平洋戦争で使用されていた紫電改も海中で見つかり、現在は馬瀬山に慰霊・展示されている。

設計図(財)宇和島伊達文化保存会蔵        久良高野長英砲台跡(地図)            

   
   
     



2011年1月19日水曜日

蔵開き

18日は財団法人伊達文化保存会の蔵開きでした。博物館からは5人が参列しました。本来の蔵開きは11日ですが18日に執り行いました。

なぜ蔵開き、鏡開きは11日なのでしょう?

正月には「大正月」「小正月」があって、大正月は元日~7日まで、小正月は昔の暦の満月(15日)を中心に11~16日まで(地域によっては20日まで)です。主に小正月は農民の行事だったようで、武家は小正月の始まりを正月の終わり=仕事始めにしたのではないかと思います。武士は具足開き、商人は蔵開き、道場では道場開きですね。また商人は縁起を担ぐので、11日は左右対称の観音開きで商売繁盛を祝うという意味もあるそうです。

         宮司さん                          財団と博物館員


 

2011年1月16日日曜日

雪の宇和島城

期待に反して雪の積雪量は少ない。しかし、気温は低く道は凍結状態だった。伊達家のお殿様も雪道を歩いて登城されたことを思えばと登ることにする。上り立ち門より、代右衛門丸跡を通り、二の丸から天守へ。(一般客は通行禁止) 帰りは井戸丸を通り、御殿側に再び降りた。城山は観光客の方が2、3人と清掃の方達、写真撮影の方しか上がっていなかった。宇和島城3つの井戸も併せて鑑賞をどうぞ。

                   上り立ち門(御殿からの登城門)


2011年1月13日木曜日

本の紹介

続けて本の紹介をします。以前、青年松浦武四郎で紹介した宇和島ご出身の作家で木下博民先生が居ます。正月の3日にはこの松浦武四郎についての「歴史シンポ イン 宇和島」がケーブルテレビで放映されました。先日はNHKラジオで全国放送されたとも聞きました。

先生の著書は多く、宇和島関係のものが多くあります。ごく最近の出版された「評伝 森岡天涯」は広範囲にわたって調査され、歴史に残る素晴らしいものでした。是非、ご一読されると良いと思います。

この方にはもう一つの顔があります。南豫明倫館館長という重責も担っておられます。この南豫明倫館とは何かは、先生の著書「南豫明倫館」をお読みください。博物館運営もこの方のご指導や協力していただく方々に支えられていることを改めて感じる次第です。

評伝 森岡天涯 表紙


2011年1月12日水曜日

屋上からの風景

空調の調整のため屋上に上がった時、四方を眺め博物館からの風景を撮りました。御浜御殿があった場所に博物館は建設されています。御当主が眺めた風景とは違っていますが、お城方面は昔も今も変わらないと思います。数百年前に思いをはせました。

                        北方面(宇和島城)


2011年1月11日火曜日

空調異常

1月8日の土曜日の午前4時、空調異常で警備保障のセンサーが発報。館員がひとまず、電源を切り、業者に連絡。調べてみると前の晩の氷雨が、寒波襲来によって室外機が凍り、空調のファンが回らなくなったことによると判明しました。昭和49年開館依頼、初めての出来事とか。

展示品に漆器類も多くあり、特に冬の間は乾燥するので温度と湿度が大切です。(財)伊達文化保存会と協議し、文化庁の指針に基づき、設定温度は23度、湿度60%にしてあります。

この様なことが二度と起こらないように、霜取り用のセンサーがこまめに働くようプログラムを設定してもらいました。写真は凍り付いた室外機とプログラムするためのコードを出しているマイコン部分です。

                        展示室用室外機

2011年1月8日土曜日

宇和島藩の紹介

歴史ブームに乗っかってか、雑誌社からの依頼がよくある。伊達博物館に於いては、ほとんどの展示物が伊達文化保存会の所有物なので、許可を頂き執筆するようにしている。今回は宇和島藩伊達家について紹介(4ページ)をしていただいた。雑誌は「週間 江戸」-町火消の誕生- DeAGOSTNI No:45 のもので昨年の12/7号 定価580円。著作権問題があるため表紙のみアップし、記事の掲載は控えますが、是非ご一読ください。 

2011年1月7日金曜日

宇和島藩伊達家

年明け早々に友人Kくんよりメールが来ました。中津藩奥平家と宇和島藩伊達家の繋がりについて述べてありました。彼は年末より、写真の「撮り歩き」に国東半島から中津、耶馬溪まで足をのばしていました。Kくんに断りを入れ、中津城の写真及び中津城のパンフレットをアップします。中津城は海城で名高いお城です。ついでながら彼のブログサイトです。
http://uwatu.blog135.fc2.com/ 「撮り歩き」

中津藩奥平家は宇和島藩伊達家の宗城の四男、昌邁(まさゆき)が養子に入っている。彼は奥平家第9代として明治維新を迎える。中津藩は洋医学の前野良沢や福沢諭吉の輩出で名高い。昌邁公も慶應義塾に入り、福沢諭吉のすすめでアメリカ留学をする。残念なことに明治17年30歳の若さで亡くなっている。
                      宇和島藩伊達家系図


2011年1月5日水曜日

明けましておめでとう御座います

 1月4日(火)より開館しています。伊達博物館では展示替えを年二回、それと企画展を二回(ひなにんぎょう展、秀吉像展)、そして恒例ともなった秋の特別展を開催します。昨年より、第四展示室では寄託品や寄贈品の展示も開催しています。(年始めは、収蔵庫改修のため閉じています。)

 いろいろな方より、アイディアを頂き、少しでも喜んでいただけるよう改善していきたいと考えています。ぜひ、ご来館下さり、ご意見を頂ければ幸いです。



2010年12月28日火曜日

展示終了

 仕事納めの今日、展示替えが無事終了しました。最後の仕事は明るさの調整です。なぜ暗いの?とか、博物館の展示を見るのに懐中電灯がいるといった声がお客さんから聞こえてきます。これは調度類や古文書など劣化させないために文化庁の基準値があり、それを参考にしているのです。最近、LEDの開発が進み、紫外線を出さない照明もできつつあります。今後の課題として博物館では研究中です。

 収蔵庫の改修のため、第四展示室は改修終了まで閉じていますから、今回の展示は第一展示室から第三展示室までテーマ別に行っています。その作業が終わった展示室内です。1月4日の開館までお待ちください。来年もよろしくお願いいたします。

                          第一展示室


2010年12月27日月曜日

展示替え

 2011年1月4日(火)~6月12日(日)前期展が「武家のくらしと風習 ~宇和島伊達家にみるくらしの調度と武家の年中行事~」のテーマで開催される。その展示替え作業が12月26日(日)~28日(火)にかけて行われた。ここ数年この展示替えは、年末の恒例行事となっている。新年に向け新しい展示が行われ、お客さんに少しでも目新しい展示を見ていただきたい思いからこのような日程になった。

伊達博物館の展示常設展の展示に到る迄の流れは
テーマ決定 → 展示物検討 → 財団へ申し込み → 蔵出し・搬入 → 検品 → 展示作業
である。

撤去作業(白梵天)


2010年12月19日日曜日

宇和島さんさ

  宇和島市の座敷唄「宇和島さんさ」は、全国的に名の通った愛媛の民謡。宇和島藩の五代藩主伊達村侯が1749(寛延2)年に参勤交代で江戸へ出府した際、仙台伊達家との間で家格について本家・末家の争いが起こった。この最中、両家が顔を合わせた酒席で仙台側家臣が地元民謡「さんさ時雨」を披露。これに負けじと宇和島伊達家のお庭番吉田万助が即興で宇和島の「さんさ」を歌った。これが「宇和島さんさ」の由来とされ、宇和島武士たちの勇気を鼓舞するために歌い継がれたという。(別名「万助節」「諸共節」)1982年の民謡全国大会で歌った松山市の主婦が優勝したことから、一気に知名度が上がった。

2010年12月18日土曜日

燻蒸

 博物館は照明、空調の他にまだ重要な要素がある。それは防虫・・・どこの博物館も防虫剤は欠かせない。期限切れや予算削減のあおりで少なくしたとたん、虫が多量に出てきて展示が出来なくなった館もある。

 ここで言う燻蒸とは、展示物の寄贈を受けたり、寄託を受けたりするときの手順の一つ。虫の発生を抑えるため、収蔵庫に入れる前の作業。燻蒸し、そして安全を確認して保管するのである。しかし、この施設を持っている館は大きな館に限られる。収蔵庫全体が燻蒸室になっているところもある。そうしたら小さな燻蒸室を持っていない館はどうするのか。持っている館に頼まざるを得ない。

 そんな館のためCO2を使った簡易的な燻蒸パックが出来たようである。ガスは人体に影響が少ないCO2。本格的な燻蒸には昔は青酸ガス」が使われ非常に危險であった。最近は緩やかなガスに変わってきている。導入には予算を伴うため見合わせているが、将来的にはLED照明と共に検討しなければならない。




2010年12月16日木曜日

照明

 博物館の生命線は空調と照明です。伊達博物館の空調は全館を2年前改修、収蔵庫を今年改修します。照明もエコ対策を考えながらLED照明に変えたいのですが、予算的な面と実績の評価がいります。これからは紫外線が出ないLEDに切り替わると思います。LEDスポットは特別展の国宝「喜左衞門井戸茶碗」を照らしました。

 昨日、Panasonicの営業担当者の方が来館されました。新商品の紹介で、今月24日発売の直管型LED照明を持参されていました。なんと蛍光灯と同じ企画の直管型LED照明なんです。スポットとこの直管型LED照明にやり変えることが出来れば、今の暗さを払拭できるかも知れません。日本の技術力も捨てたものではないと改めて感じました。

天井取り付けのスポット
小さな方がLEDスポット

2010年12月12日日曜日

前立て

 兜の前立てで有名なのは「伊達政宗の三日月」、最近では大河ドラマの影響で「直江兼続の愛」などである。宇和島藩伊達家では鍬形が主に用いられている。寄贈していただいた秀宗所用「紫糸威二枚胴具足」の前立てが二カ所折れている。気になるので、新しく作成してもらった。

 作成者は何時もお世話になっている大村仁志氏である。この方にはこのほか「琵琶湖早船」「伊達の黒船(前原巧山の蒸気船」「松根家の生首の前立ての切り抜き」「結界」なども作成してもらっている。この前立ては兜を軽くするため木製品である。今回は桐で作成し、金粉の塗料を何度も吹きつけ塗り直してもらった。

秀宗の前立て

2010年12月10日金曜日

返却作業

 博物館では品物の貸し借りが多々ある。愛媛県立歴史文化博物館でこの秋、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」が開催された。宇和島市立伊達博物館からは「宇和島城下絵図屏風」を借りたいとのことでお貸しした。今日その返品に学芸員二名と日通の美専車職員二名が来館された。この作業の逆がお貸しするときの作業である。


2010年12月5日日曜日

寄贈と寄託

 今日、松山在住の方より伊達家に関する文書類を寄贈したいとの申し入れがありました。いつものことながら「寄贈」ですか、それとも「寄託」ですか。の確認をしました。伊達博物館は市立ですから、寄贈となると宇和島市へとなります。寄託は御預かりするものです。しかし、あくまでも「伊達博物館」ですから伊達家関連のものとしています。寄託品も収蔵庫の大きさにも限りがあり、その都度、検討します。しかしながら資料や物の散逸を防ぐため、出来る限りの努力は怠っていません。今日の投稿は博物館用語の解説ですね。

 参考までに、京都国立博物館や奈良国立博物館などは各お寺さんからの寄託が多く、年明けには挨拶回りでひと月近く掛かるそうですよ。

2010年12月1日水曜日

晩秋

 今日から師走。世の中、先生も走るほど忙しくなる季節という。しかし、博物館は年間で一番入場者が少ない月である。小春日和の今日、博物館前の偕楽園、そして名勝「天赦園」の晩秋を拾ってみた。

木蓮の紅葉と蔵

2010年11月26日金曜日

書籍販売

 伊達博物館は郷土の歴史資料やお預かりしている書籍(伊達家関係)がいろいろとある。今回、お預かりしたのは、木下博民著「青年・松浦武四郎の四国遍路」。表紙の帯封に内容は書かれている。松浦武四郎とはどのような人物か? 北海道という名前の名付け親、フリーのルポライターと言ったら過言だろうか。幕末に於いて彼ほど情報通はいない。先日、北海道松浦武四郎研究会の方々、宇和島歴史文化研究会の方々、伊達家13代御当主宗信様が「歴史シンポ in 宇和島」というシンポジウムを福祉センターで行った。盛会で皆熱心に参加されていた。これによって一段、武四郎と宇和島藩伊達家との繋がりが大きく取り上げられ活気づくことを期待したい。19歳で四国遍路に挑戦した宇和島藩領での彼の足跡をたどるのも一興。


2010年11月21日日曜日

お問いあわせ

 博物館用語だろうか? そのまんまか?不明である。いろんな講座や講演、教室などを実施すると必ず、質問がある。今回はその中から面白いものを抜粋した。

2010年11月20日土曜日

収蔵庫改修

 11月18日付けで次の連絡を館長名で出しています。平成22年12月1日(水)~平成23年2月下旬頃まで収蔵庫空調改修工事を行います。尚、改修工事に伴い第4展示場を閉鎖致します。第1~3展示場は通常通り展示しております。ご迷惑をお掛け致しますが、ご了承下さい。

 ご存じの様に博物館は展示室は表舞台の生命線、収蔵庫は普通、目に触れませんが裏舞台の生命線です。23度、60%が収蔵庫の基本。これを365日保たねばなりません。写真は収倉庫の前扉と空調システム操作盤(コンピュータ制御)です。右手の写真のメータは「前室湿度」「前室温度」「収蔵庫内湿度」「収蔵庫内温度」です。365日、24時間セキュリティ管理され、異常になると警備保障より緊急連絡が入ります。



2010年11月12日金曜日

講演会始末記

 退職公務員連盟から講演を依頼され、鶴島公民館で行いました。演題は「歴史は切り口」、サブテーマは「伊達家人物往来」でした。今まで行った講演とできるだけ重ならないように今回は著作物を紹介しながら見方(方向)によって歴史のおもしろさが分かるというよくばったもの。これが失敗の基でした。なにしろ脈絡がないことおびただしい。演題は外れていないと思いますが、何を言いたいのか分からなかったと思います。レジュメを造っておけば良かったと反省しきり。ブログの url をお教えしたので読んでくださる方も居ると思いますので、この場を借りてお詫び申し上げます。m(_ _)m

秋空に映える宇和島城

2010年11月11日木曜日

華道

 四季折々を花器に生ける生け花は日本古来の芸術である。伊達博物館や宇和島藩伊達家においては華道についての文書やお道具はない。しかし、特別展などでいろんな方とお付き合いする中で、自然と耳に入ってくる。

 個人的には川瀬敏郎氏のものが好きであるが、あくまでも個人的にである。彼は流派に属さず、生け花の原型である「たてはな」と、千利休が大成した自由な花「なげいれ」をもとに、創作活動を続けている。

 朝、仕事の打ち合わせのため訪れた天赦園で自然の生け花的な風景を見た。